Work Text:
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ざざ、と、寄せては返す波の立てる音が、宵の暗がりの中で静かに響く。足元では細かな砂の粒が波と混ざり合い、溶けるようにさらさらと流れていく。月明かりの眩しい今夜は、微かな風があるばかり。程よい気温となった南国の夏の夜気が、半袖の肌に心地良かった。
「わぁ、すごい…」
一歩、入り江へと近付いたランガが感嘆の声を上げる。2人の眼前に広がる凪いだ海面には、深藍の夜空に上がってきた月の輝きを照り返して、波打ち際から彼方の沖へ、幅の広い光の筋がすうっと伸びていた。
「今晩は風もないからね。水面が静かで、よく反射してる。こういうのは、月の道、と呼ばれるんだったかな」
愛之介はランガの興をそがないよう、淡々と説明を口にする。天にある月まで続くようにも見える光の道は、別の世界へと渡れる橋のごとくにも見えた。
「綺麗だね、アイ」
こちらを振り向いたランガは、穏やかに微笑んでいた。知らず、愛之介はふふっと低い忍び笑いを漏らす。君の方が綺麗だよ、などという、月並みな文句はランガには似合わない。
話に聞いていたように、やはり少し背が伸びているようだった。沖縄にいた頃にはあどけなさもあった表情には、精悍さが増したように感じられる。
もう、少年ではなく青年と呼ぶべきだろうか。それでも変わらず、久々に顔を合わせた恋人は、息を忘れるほどに美しかった。
今年の春に高校を卒業したランガは、県外の大学へ進学して沖縄を離れた。もちろん、通話やメッセージで連絡はこまめに取り合っているが、“S”でも会えた交際当初に比べると、やはりここ数か月、実際に会う機会は格段に減ってしまっていた。
大学の夏休みでランガが沖縄へと戻ってくるこのタイミングで、なんとか愛之介も日程の都合をつけて(忠には散々無理をさせてしまった)、今日はこうして、2人きりの休暇旅行に出かけていたのだった。
都市部からは離れたところにある、神道一族が経営を手掛けるリゾート地。そこの一角にひっそりと佇む、プライベートビーチ付きのヴィラが滞在先だった。午後に到着した2人は、建物からすぐ外にある、小さな入り江の前の白い砂浜へ散策に出ていたのだった。
「…わ、冷たい」
素足に波が届いたのだろうか。驚いた調子でそう言ったランガが、波打ち際からさっと身を引く。愛之介は腕を伸ばすと、恋人の体を胸元に抱き寄せた。
「月の光があっても、足元は暗いから気をつけて。夜の海は綺麗だけれど、君を海の彼方の異界へ連れ去る魔物が潜んでいるかもしれないからね。あまり、水際には近づかない方がいい」
「魔物? クラーケンとか、そんなの?」
「さて…どうだろうか」
愛之介は軽く苦笑する。カナダの山間部育ちのランガは、海の怪異に対するイメージも、日本の一般的なものとは大分違うようだった。
ここ南島でのニライカナイ信仰のように、古来より日本では海の彼方には常世の国、現世とは異なる理想郷があるとされてきた。
その一方で、四方を海に囲まれた島で暮らす人々の間には、海の向こうから何か得体の知れないものがやってくる、そんな根源的な恐怖が存在しているとも聞く(どちらかといえば、愛之介にはそうした感覚の方が強かった)。
実際に、水平線の望める昼間とは違って、眼前に広がるくろぐろとした夜の海は人の目では文字通りに果てが見えない。古代の人々が、その先に続く彼方の世界を「この世ならぬもの」と結びつけてきたのも無理からぬことだろう。
ここではないどこか、自らの思い描く「理想郷」へと至る幻想を抱いていた時期も、愛之介には長かった。どこともわからない理想郷を探そうとただもがく、その昏い場所から愛之介を連れ出してくれたのが、誰あろうランガだった訳で――
「なんだかずいぶん、遠くまで来た気がするのに、海の向こうにまでは行きたくないな…」
愛之介の胸中の追想など知らぬげに、ややくたびれた調子でランガが言う。確かに、下宿先から遥々沖縄の実家に戻ってきた後で、そこからさらにこのリゾート地までというのは、なかなかの長旅だったことだろう。
「あなたの側がいいや」
「…光栄だね」
腕の中でこちらを見上げるランガの額に、そっと愛之介はくちづけを落とす。細い顎を引き寄せて、情熱のままに唇を重ねたい衝動にも駆られたが――せっかくのこの浜辺での、静かな時間を終わりにしてしまうのはもったいない。夜はまだまだ、長いのだから。
「ランガ、少し踊ろうか」
「うん、喜んで、アイ」
いったん体を離すと、対面で向かい合って片手を取り合う。愛之介はもう片方の手をランガの肩に回した。
足元はダンスフロアの硬い床ではなく、さらさらとした粒の砂浜。ヴィラ備え付けのビーチサンダルを履いたこちらに、若いランガは裸足だった。こんな時には激しいステップはまったく似合わない。月明かりの下で、波の音だけをBGM代わりに、寄せ合った体をゆっくりと動かしていく。
気の向くままに揺れながら、時には離れながら、2人は砂浜の上を優美に踊る。まるで、世界に他の誰も存在していないかのような、互いの鼓動が響き合うかのような――静かで濃密な時間が、2人の間を悠然と流れていった。
「ふふ、こんなのも久しぶりだ」
明るく笑ってランガは言った。何もかもが即興のスローダンスを楽しんだ後で、2人は並んで浜辺に座る。身を寄せ合って踊ることは、離れていては、画面越しではできないことだった。
「そうだね。でも、いつだって君は、僕の最高のパートナーだよ」
それは愛之介の本心だった。凪いだ海辺、月明かりの眩しい穏やかな夏の夜空の下で。手と手を取って、魂を響かせながら踊った後、きらきらとした瞳でこちらを見て、息を弾ませている可憐な恋人。
こんな、完璧と呼べるような幸せな時間が、未だかつて自分の人生にあっただろうか?
幸せはいつか壊れる。どれだけ自分が大切にしているものであっても、どうしようもない強大な力が無情にそれを打ち砕いてしまうことはある、と愛之介は知っていた。
だが愛之介はもう、幸福のよすがを断ち切られて泣いていた子供ではない。失ったと思っていた幸福が、なお自らの裡に留まっていたことを思い出せたのは、他ならぬランガの――大切な彼のイヴの――おかげだった。
だから、彼に伝えておかなければならない。たとえそれが、どれほど辛く思えるものだとしても。
「ランガ…その」
「うん?」
「一度、言っておこうと思っていた。君がこの先、僕に飽きたなら…君はいつでも、僕を捨てていい」
「…愛之介?」
言葉が喉元を通り過ぎる時にはかなりの苦さを感じたが、口に出してみると、やっと言えた、という安堵感が全身に広がる。努めて平静を装いながら、愛之介は続けた。
「君は若く、前途があって、素晴らしい力を備えた人間だ。大学でも、その外でも…これから様々な人に出会って、どんどん広い世界を知っていくことだろう。そんな中で、僕との関係に縛られる必要はまったくない」
そう告げると、2人の間に沈黙が降りた。愛之介は、いつもの調子でランガが「わかった」と言うのではないかと思っていたのだが、何故かランガは軽くうつむいて、黙り込んでしまっている。
薄暗がりの中ではっきりとは見えないが、隣に座るランガの表情に浮かんでいるのは――困惑、なのだろうか?
「あのさ…」
顔を上げたランガはそう切り出したものの、言葉がうまく見つからないのか、軽く眉をひそめたまま、続きを考えあぐねているようだった。揺れる視線を愛之介の顔に向けながら、何度かランガはまばたきをした。
「その…つまり、この先あなたと俺が一緒にいるかどうかは、俺が決めていい、ってこと?」
「あ、ああ…。そういうことにも、なるかな」
ランガの意図を図りかねて、ややどもりがちに愛之介は答える。
どうしたって自分は、ランガの決定には従ってしまうのだろう。だからもし、ランガが自分を「いらない」と言うそんな日が来るならば、(体中が切り裂かれるような痛みを伴うだろうが)愛之介は間違いなくそれを受諾する。そのことを、伝えておきたいと思っていた。
「だったら簡単だ。俺はここにいる」
「ランガ?」
「俺がそうしたければ、ずっとあなたの側にいていいんだろ? そして、俺はこの先もあなたといたい。それだけだ」
「君は…」
愛之介は息を飲む。そうだった、ランガは時に、こちらが驚くくらいにストレートな言葉や態度をぶつけてくる相手だった。
「年齢も、経験も俺は全然足りないよ。いつまで経っても、愛抱夢に追いつける気なんてしない。けど俺、だからといって、あなたから離れるなんて嫌だ」
常のランガには珍しく、駄々をこねるような調子でそう言うと、ランガはひとつ頭を振った。おそらくは無意識にだろうが、久しぶりに『愛抱夢』と呼ばれて、愛之介の心臓が大きく音を立てる。
「愛抱夢に飽きるなんて、そんなことある訳ないよ。あなたはいつだって、俺にドキドキをくれる。今日だって、こんな…夢の中みたいなところに連れてきてくれて、一緒に過ごせて…俺、すごく嬉しい。いくら世界が広くたって、あなたみたいな人は他にはいないよ。俺、自分のことはわかってる。俺の心をこんなにも動かすのはあなただけだ。そして俺が、あなたと離れたくないんだ。だから…一緒に、いさせてよ」
なんということだろう。ランガに及ばないのは自分の方だと思っていたのに、まさかランガが、逆のことを思っていてくれたなんて。
愛之介は驚きを持ってランガを見つめる。一気に言葉をまくし立てた後で、泣きそうな表情を浮かべている。
「ランガ。君は、本当に…」
“S”での果敢な姿を見たあの時から、いつもいつも、驚かされてばかりだった。
今は少し潤んでいる、アクアブルーの迷いのない瞳。その裡に秘められた彼の強さに、どれだけ自分は救われてきたことだろうか。そう、ランガは愛之介の望むすべてだった。自分がランガに不足などある訳がない。そんな風に思わせて、悲しい思いをさせていてはいけない。
ひとつ呼吸をすると、ゆっくりと、愛之介は上体を曲げてランガに近づく。
「ありがとう、ランガ。…ああ、君が望んでくれるなら、いつまでだって僕は君のものだよ。イヴはアダムをなくさない、そうだろう?」
「愛抱夢…」
ランガの顎を持ちあげて、こちらへと慎重に引き寄せる。そのまま、互いの唇を重ねた。柔らかに甘い、恋人同士のキス。それを深く味わおうと、愛之介はゆっくりと唇と舌を動かす。
「…んっ…」
重なった唇の隙間から漏れるランガの甘い声は、どんな美酒よりも愛之介の心を酔わせる。身体の奥の方から熱が高まってくるのを感じながら、更にくちづけを深めようとした瞬間――
「…わっ!」
突然、ランガの唇が離れた。そしてすぐに、ドサッという音が聞こえる。愛之介は事態が飲み込めず、何度かまばたきをした。どうやらランガは砂の上でバランスを崩したようで、砂浜に突っ伏してしまっていた。
「…ええと…大丈夫、かな?」
「う、うん、ちょっと、ついてた手が、滑っちゃっただけ…」
そうだった、ここは屋外、しかも砂の上という不安定な場所だった。恋人と愛を語らうにはいいが、さらにその先に…というのは無理がある。
「大丈夫…どこも、痛くない…」
言いながら、ゆるゆるとランガは顔を起こす。突然の出来事に驚かされてしまったが、どうやらランガに大事はないようで、愛之介は安堵を覚えた。
けほけほ、とランガは軽く咳き込む。砂が口に入ったのだろうか。夜目にも、照れからかランガの白い肌が首元まで真っ赤に染まっているのがわかった。なんと愛らしい姿だろうか。愛之介はどうしても、頬が緩んでしまうのを抑えきれない。
「それなら良かった。…風も出てきたし、もう、部屋に戻ろうか」
「うん…」
努めて平静にそう言った愛之介に、ランガはこくりと頷くと、髪や服についた砂を手で払う。一足先に立ち上がった愛之介は、不意に、いつか試してみたいと思っていたことを思い出した。
「ランガ。ちょっとそのまま、力を抜いて」
「…え!?」
愛之介はランガの前に膝をついて再び屈む。ランガの肩に腕を回し、もう片方の腕を膝の下に差し入れると、そのまま体を抱え上げた。そして重心を低くしたまま、一気に立ち上がる。
確かこれは、英語ではブライダルキャリーと呼ばれていた筈だ。横抱きにしたカナダ人の青年のしっかりした筋肉質の体には重さもあったが、愛之介にはこの重さが、彼の確かさを証明してくれているようにも思えた。
「ち、ちょっと、愛之介…大丈夫? 俺、背も伸びたし、重くなってると思うんだけど」
「うん? 僕を見くびってもらっては困るな。こうして君を運べるくらいの力はあるさ」
あたふたとしているランガにそう告げると、愛之介は夜の海にくるりと背を向け、ヴィラへと向かって砂浜を歩き出した。
「ね、ねぇ、アイ…。俺、歩けるよ? 重かったら、いつでも…降ろして、いいから…」
そろそろと、逞しい愛之介の肩に腕を回してバランスを取りながら、困ったような調子でランガはそう言う。ごく近い距離にある、赤面した恋人の顔に、愛之介は大きな笑みを向けてみせた。
「いいや、降ろしたりはしないよ。これも僕の愛だからね」
//END
【おまけ】
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もしも幸福が人の形を取るのならば、僕の幸せは間違いなく君の姿をしている
楽しげに声をあげて笑う君
しなやかに、軽やかに踊る君君のすべてが僕を照らして、僕の世界にあたたかな炎を灯す
繋いだこの手が離れることがあったとしても、君という光は僕の永遠だ
