Work Text:
「忠、こんばんは。迎えに来てくれてありがとう」
神道家の黒い車に乗り込みながら、ランガは運転席の忠に声をかけた。
「ああ、こんばんは、ランガ。これも仕事だ、気にしないでいい」
「待て、待て…。忠、どうしてお前はランガくんを呼び捨てにしてるんだ?」
後部座席でランガを迎え入れようとしていた愛之介から、そんな不満の声があがる。
「俺がこないだ頼んだんだ、忠にそうしてって」
「ランガくん? 君が?」
「うん、俺」
軽く応えると、ランガは席についてシートベルトを締めた。その様子をちらりと確認すると、忠は車を走らせ出した。
「はい、その通りです。私の主人である愛之介様の大切な方からのご命令でしたので、お断りする理由はないと考えました」
「ああ、そうか――そうだな。しかし、そう思うなら、もっとランガくんに丁寧に話したらどうなんだ?」
「それも俺が忠に頼んだんだよ。敬語は使わないでって。DOPEに来た時には、忠は俺達に敬語なんて使ってなかったのに」
「ううん…けれど、今は僕達の状況が違うんじゃないかな?」
「そうだね。でも俺は、使用人がいるみたいな生活には慣れてないんだ。忠に敬語で話されると落ち着かない。なんか、こう…病院の受付か、役所にいるみたいな気がして」
「ああランガくん、大切な僕のイヴ! 君はなんて広い心の持ち主なんだろう! 君の優しさに、僕はまた深く感動しているよ…!!」
「愛抱夢――いいや、アイ。聞いて」
「何かな、ランガくん?」
「あなたにも俺のこと、『ランガ』だけで呼んでほしい。何回か頼んだと思うんだけど」
「ああ、素敵な申し出だね! けれど、『くん』は一種の敬称なんだよ。僕は君への、崇拝や敬慕の思いを表したいと思っているだけなんだ」
「うん、ありがとう。そんな風に言ってくれるのは嬉しい」
一度言葉を切って、ランガは微笑んだ。
「それで…あなたのことは、アイって呼んでいいって言ってくれたよね。俺のことも色んなニックネームで呼んでくれる。なのに名前で呼ぶ時はいつも『ランガくん』だ。俺達、付き合ってるんだろ? 敬称はいらないと思うんだけど」
「おやおや…うーん、これは困った。まるで板挟みだよ。知ってのとおり、僕は礼儀をきわめて重んじるタイプなんだけれど、一方で、君のことを深く想う男でもある。僕の思慕を表すことと、君の願いを叶えること。ああ、一体、どちらを選べばいいんだろう…!?」
大げさな身振りでそう言った愛之介を、ランガは冷静に見つめた。
「決勝戦のビーフで俺のこと、『ランガ』って呼んでたよね? 俺、覚えてるよ。ゾーン…だっけ? あの暗い空間で、俺の名前が聞こえて、そしてあなたを見つけられたんだ」
うぐっ、というような音を漏らし、愛之介は言葉を失った。「ゾーン」での出来事について、その後に話す機会はあまりなかったので、ランガはあそこで起こったことを細かく覚えていないのだろうと思っていたが――それは違ったようだ。
「あなたは日本の人だし、礼儀正しいんだと思う。敬称がどれくらい大事なのかは俺にはわからないんだけど、でも、なしでも俺のこと呼べるんなら、その…そっちの方が、俺はいいなって」
ランガの頬にさっと朱がさす。なんと美しいのだろう、愛之介の心臓はどくんどくんと、うるさいくらいの音を立てる。ごくりとつばを飲み込むと、愛之介は慎重に話を続けた。
「僕のスノー…どうか僕に、君の名を呼ぶための、心の準備をする時間をくれないだろうか…」
「準備なら、今すぐできると思うんだけど」
こともなげに言うと、まっすぐにランガは愛之介の瞳を見つめてくる。そうだった、彼はこんな強さを秘めているのだ。何も恐れることなく自分に向き合ってくる、ランガのそんな一面に、愛之介はどうしようもなく惹かれずにはおれない。
吸って、吐いて、深呼吸をする。意を決したように、愛之介は口を開いた。
「――ランガ」
「ありがとう、アイ。名前を呼んでもらえて嬉しい」
いたずらっぽい笑みをランガは浮かべた。愛之介にとっては決して忘れられない、まったく新しい経験をした瞬間だった。
「愛之介様、我々はもう到着しております。車を降りていただけますか?」
有能な運転手であり、優秀な従者である忠が礼儀正しく2人に声をかけた。
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