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The Sign of Fountain pen

Summary:

トリビア:ジョンが悪筆という設定は、原典…ではなくそれを分析するシャーロキアンのネタです。
原典に記載された事件の日付がおかしいことに気づいた一部のファンが、ワトソン医師の手書き原稿が汚すぎて、ドイル卿が出版の際に間違えたのだと理由をつけたのだとか。
可哀想なジョン……

Notes:

Special thanks to the BBC series for the eternal inspiration.
Originally titled "The Sign of Fountain Pen" this short story was first published in print on September 22, 2012, in my doujinshi anthology, THE Fakebook of Sherlock Holmes.

(See the end of the work for more notes.)

Work Text:

「驚いたな。万年筆を扱うのは右手か」

シャーロックはさほど驚いたようには思えない声でそう言うと、転がっていたカウチソファからだるそうに身体を起こして立ち上がった。
陰鬱な雨が続く中、僕は新鮮なミルクとベイクドビーンズを買い足すために自動レジとの格闘を行い、ようやくベイカー街のいつもの居間に戻ってきたところだった。一方のシャーロックは朝からずっと色々な新聞やWEBサイトに没頭していたのだが、今日のところは興味をひくような事件は何も見つけられなかったようだ。いつもだと迷惑なヒステリーを起こして、僕が書いているブログの表現や文法について妙な小言を言いたい放題……なんて事もあり得る状況だったわけだけど、その僕がテーブル上の見慣れぬ物体を見つけた事で興味の方向が変わったらしい。彼は右手で万年筆を持ったまま硬直する僕に歩み寄ると、問題の『それ』を取り上げながら言った。

「君の母校はずいぶんと前時代的だな。利き腕に対して理不尽な矯正を施そうとする教師が存在するとはね」
「いや。僕の左利きを矯正しようとしたのは高校じゃなくて小学校の時の」

脳裏に甦った悪夢を口に出そうとしたところで、僕は動きを止めた。

「シャーロック?ええと、なぜ君は僕が学校で利き腕を矯正されたって知ってるんだ?」
「知ってたんじゃない。今観察して、確信した」
「よし。質問を変えよう。君は何を観察してその確信に至ったんだ?」

わけがわからずに硬直する僕の顔を見下ろしながら、シャーロックは呆れたように「こんな事も解らないのか」と言わんばかりに首をかしげた。

「君が万年筆を手に取ったときの反応だ。まるで不発弾でも扱うかのようだった。最初は高級品だと認識したせいかと思ったが、すぐに視線が右上へ動いた――視覚記憶の検索だ。万年筆に触れた瞬間、君の脳は深く刻み込まれた特定の記憶を呼び起こし、ほとんど反射的に左手から右手へ持ち替えた。まるで利き手で持つこと自体が罰則の対象であるかのように」

シャーロックの言葉に、僕は自分の右手と彼の手の中に収まっている万年筆を見比べた。あれをテーブルから拾い上げてからわずかの間に僕はそこまで解りやすい行動を取っていたというのか。いや、そんな些細な動きからそこまで読み取ってしまう彼の観察眼がずば抜けているのか。あっけにとられる僕に構わずシャーロックは言葉を続けた。

「君は左利きだ。銃を扱う際は右を使うように矯正されてはいるが、物を書くときや細かい作業になると本来の利き手である左手を使う。ペンの類も通常は左手で扱っている。にもかかわらず、君は拾い上げた万年筆を右手に持ち替えた。左利きの人間がわざわざペンを右手に持ち変える。これはとても奇妙な行動だ」

彼の言うように僕は左利きだ。そして、これは全世界の左利きの人間には強く賛同してもらえると思うのだけど、日常生活において左利きが大変な苦労を強いられる場面というのは結構多い。イメージしてもらいやすいのはハサミについてだろうか、一度普通のハサミを左手で使ってみてほしい。こうすると切断面がハサミの刃に隠れてしまうので今自分が何処を切っているのか見えない事に気がつくと思う。そう、左手で思い通りに普通のハサミを使うためにはかなりの練習が必要になる。それだけじゃない。軍から支給された銃や、駅の自動改札、デジタルカメラ、電話、冷蔵庫の扉などなど、左利きの人間が煮え湯を飲まされる場面は数え切れないほどだ。そんな中で左利きが最も苦労させられるのが『文字』についてじゃないだろうか。嫌な記憶を思い出してしまった意趣返しも含めて、僕は右利きのシャーロックにこう答えてみせた。

「博識な君なら知ってると思うけど、左手で文字を書くのは大変なんだ。特に万年筆だとね。ボールペンでだってペン先が手前を向くように持たないと文字が書けないんだよ。かといって万年筆でその持ち方をすると紙が引っかかったりインクが出なかったりするんだ」

文字は左から右へと書くように作られている。そして多くの筆記具、特に万年筆はこの動きに合うような構造をしている。そのためこの万年筆という道具は、左手で扱うにはかなり面倒な道具なのだ。と、左利きの僕が右手で万年筆を持つことは別に奇妙なことじゃないと暗にほのめかしてみたのだが、当のシャーロックはこの暗示を笑い飛ばしてみせた。

「まばたきが多い」
「え?」
「まばたきが多くなるのは不安や緊張感の表れだ。君は万年筆を手に取ってから途端にまばたきの回数が増えた」

問題の万年筆を片手でくるくると回しながら、シャーロックはニヤリと口の端をつり上げる。まるで獲物を追い詰めた猫のような表情だ。

「前後の行動から考えるに、過去、君は万年筆について何か嫌な記憶があったに違いない。そしてその記憶とは『左利きである君が筆記具を右手で持つように強制された』事だろう。他の筆記具についてそういった兆候は見られないから、その『強制』はごく短期間で、かつ万年筆に特化して行われた。となると君の両親が行ったとは考えにくい。ではこの条件に該当するのは?学校の教師だ」
「それであの結論か。毎度ながら素晴らしい推理力だよ」
「そうでもないさ。君が万年筆を持ち替えたときのあの態度。あれほどの緊張は強制を受けた時期が近いせいかと思ったんだが、まさか小学校だとは。君の脳にはよほど強烈な負荷として刻み込まれているらしい」

それまで浮かべていた意地の悪い笑みを納め、まるで脳の中に納められた記憶まで読み取ろうとするかのように彼はこちらに真剣な眼差しを向けてくる。僕は何となく居心地の悪さを感じてしまい、一度落とした視線を何とはなしに天井へ向け直した。そう。確か、彼女にヒステリックな声で怒られていたときも、僕は全く同じ行動をとっていた様な気がする。

「ああ、確かに。僕の人生においてアフガンで撃たれた次ぐらいにひどい出来事の一つだったな。僕の字が下手なままな理由の何割かは彼女のおかげだと思ってるぐらいさ。何をしようにも『字がうまくなりたかったら、異常な左利きを正常な右利きに直さなければなりません!』なんて具合で、とにかく右手を使うように矯正を受けたんだ。結局字は上手くならなかったし、彼女に対しては本当に嫌な思い出しか残ってない」
「愚行だ」シャーロックの声は平坦で、臨床的だった。「利き腕は単純に神経学の問題だ。無理な矯正は脳の神経経路を強制的に再配線し、甚大な心理的ストレスを引き起こす。ジョージ六世の吃音はジョージ五世による旧態依然とした虐待の直接的な結果だ。ルイス・キャロル、ウィンストン・チャーチル――いずれも同じ教育的蛮行の犠牲者だ」
「へぇ、あのチャーチルが?」

シャーロックの口から出された著名人達の名前に、僕は不機嫌な事も忘れて素直に感心していた。

「とすると、彼の右手のVサインには二重の意味があったのかもね。ドイツ軍と彼の小学校の先生向けて」
僕の皮肉に、シャーロックは一瞬動きを止めた。
「非常にユニークな説だ。二重の目的を持つ反抗のジェスチャーか」

この僕のくだらない冗談は、思わぬ所にあるシャーロックの笑いのツボを刺激したらしい。勢いよく笑う彼と一緒に僕もしばらく笑っていたのだけど、やがてこの状況に至る元となった万年筆の存在を思い出した。

 

「ところで、君が持ってるその万年筆。誰のなんだ?」
「観察してみたらどうだ?個人名までわからずともどんな人物の持ち物かは簡単に推理できるはずだ」

投げ渡された万年筆を、僕は目の前に掲げながら首をひねった。

「新品、かな?」
「不安ならば書き味を試してみればいい」
「いや。だから万年筆は未だに苦手なんだよ。学校で使っていたとは言っても実際に使ったのはもう何年も前のことだし」
「大丈夫。これはこれは左利き用だ。左利きの人物が書きやすいようにペン先の角度が通常の物と逆になっていて、右手で扱うと非常に書きづらいことに気がつくはずだ。つまり、その万年筆の持ち主は左利きの人物だ」

ガウンの裾を翻しながら、シャーロックは元いたカウチソファへと腰を下ろした。

「新品で、ほとんど使われた形跡のない左利き用の万年筆。落ちていた場所は居間のテーブルの上。日常的にこのフラットに立ち入ることができるのは僕と、君と、ハドソン夫人。僕とハドソン夫人は右利きだからこの万年筆の持ち主の条件には該当しない。この部屋を訪れるその他の人物として依頼人等が考えられる。が、該当する人物が万年筆を忘れるとするならばテーブルの上ではなくソファの近辺だろう。さらに、ここ二ヶ月ばかりこの部屋を訪れた人間で左利きの人間は皆無だ。つまり、これは『君のもの』と言う結論になる」
「いや。その結論はおかしいぞシャーロック。そもそも僕は万年筆を持ってな……」
「そうだ。君は万年筆を持っていない。これは僕が君のために買ってきたものだ」

シャーロックから返ってきた思いもよらない答えに、僕はひっくり返ったような声を出していた。

「なんだって?」
「君に借りたボールペンが返せなくなったから、代わりにそいつを買ってきた」
「借りたって……いつ貸した?」
「三日前」

端から聞けばかなり常識はずれな会話に違いなかっただろうが、当のシャーロックはまったくもって当り前の事を話しているかのように言葉を続けた。

「君には話していない事件だと思うが、その容疑者は正当防衛を主張していた。とっさに机の上にあったボールペンで被害者の頸を刺してしまったのだと。実際にそんなことが可能かどうか検証するために君のボールペンを使わせてもらった」
「使わせてもらっただと?君は僕のボールペンで何をしたっていうんだ!?」

この質問にシャーロックから返された答えは、なんとなく想像できてはいたのだが、思わず耳をふさぎたくなるような内容だった。

「検証だ。人の力でボールペンをどの程度頸部に突き刺すことができるのか。事件に使われたとされるボールペンはたまたま君のものと同じメーカー製だった。ある程度使い込まれている事も凶器と条件が揃っていて非常に好都合だった。―どうしても『その』ボールペンを返して欲しいというのなら今からモルグに取りに行こう。ペン先に血と肉と脂がこびり付いているだろうから書き味については保証できないが」
「いい、シャーロック、そのままにしておいてくれ。頼むから、持ってくるな!」

どこまでも平坦なシャーロックの声に対して、僕は鼻の付け根を押さえ、溜息をこらえた。今更死体を見て取り乱すような神経はない――アフガンで嫌というほど見てきた。だが、自分の私物を法医学的器具として使われるのは話が別だ。故人への敬意という問題を差し引いても、この男の基本的な臨床衛生に対する完全なる無頓着さには愕然とする。近いうちに交差汚染について真剣に話し合う場を設けるべきかもしれない。

「ええと、筆記以外の用途でペンを借りる時はその用途をちゃんと伝えてくれ。自分の使っていた日用品が知らないうちに、実験とは言え凶器として扱われるのは、ちょっと、いや。かなり気分が悪い」
「わかった。気に留めるようにしておこう」

個人的には気に留めるどころか徹底して欲しい事項なのだが、冷蔵庫や電子レンジを開ける度に心臓の止まる思いをさせてくれている彼のことだ、気に留めておくという返事がもらえただけでひとまずは十分と考えるしかない。

「しかしまた、ずいぶんと高そうな万年筆だな」
「そんなことはない。インクさえ補充すれば何十年と使える。使い捨てのペンを買い足すよりは安上がりだ」
「そういう観点から見ればそうかもしれないけど、さすがにこんな高価な物は受け取れないよ」

精神衛生上あまり好ましくないボールペンの末路は忘れることにして、僕は再び手元の万年筆を見下ろした。艶やかな黒の胴軸に細かな金の装飾。左利き用だというそれは下手をすると普通に市販されている物ではないだろう。
渋る僕の態度を眺めながら、シャーロックはなぜか呆れたように言った。

「君はメモを書いた後、筆記具をそのまま傍らに置いてしまう癖がある。しかもそのまま置いた場所を忘れる。実際、君は僕にペンを貸したことを三日間も忘れていた。ペンの存在自体忘却していたわけだ。だからいざメモをとろうとする度に慌てる。ペンは何処だ?前に使ったのはいつ?何処に置いた?診療所か?寝室か?仕方ない。高いものではないし買ってしまおう。それが元からの性格か従軍時代の経験によって培わされたものかは知らないが、君はもう少しばかり自分の所有物に固執するべきだ」

そう言いながら、彼は再び僕の目の前を通り過ぎ、テーブルの片側に伏せてあった新聞の束に手をかける。

「僕らがフラットシェアを始めてから、君が買い足したペンは何本になるだろうね?」

芝居がかった大げさな仕草で新聞を払いのけると、その下にはボールペンの墓場が広がっていた――まるで戦場に倒れた兵士のように散らばった、数十本ものペン。どれもこれも見覚えがあり、どれもこれもいつの間にかどこかへ消えたと思い込んでいたものばかりだった。

「これ……何処に?」
「主に居間だ。テーブルの端、伏せた雑誌の下。床に落ちていたのもいくつか。最初は『常に手の届くところに筆記具があって便利だ』と考えることにしていたが、一ダースを越えたあたりで気が変わった。ここを文房具屋のショールームにする予定はない」

この居間が散らかっているのはお互い様、というより八割方彼のせいだと思っているし、その意見を撤回するつもりはないのだけれど。さすがに今まで自覚していなかっただらしなさの証をこうしてまとめて見せつけられてしまうと何も言い返せなくなってしまう。

「君は自分のことにはとことん無頓着だが、他人からの好意に対しては義理堅くいつまでも記憶しておく性質だ。経済的にある程度余裕ができた現在でも不仲な姉から譲り受けた携帯を使い続ける程にはね。君は、人からもらった贈り物を大切に扱う事を一種の義務のように感じている面があるな」
「自分で買ったペンはすぐに忘れるけど、君からプレゼントされたものはそう簡単には忘れないと?」
「ああ。しかも君はそれを高価なものと認識している。少なくとも今までのようにソファの下に転がしたままにしておくことはしないだろう。君が万年筆にそこまで嫌な思い出があったことは計算外だったが」

難しい顔をして黙り込んでしまったシャーロックを見上げながら、僕は黒いキャップを外し手近な紙に自分の名前を書き込んでみることにした。恐る恐る押し当てた合金製のペン先は、紙に引っかかることもなく、さらさらと紙の上を滑っていく。すぐに書き上がった僕の署名は、ペン自体に馴れないせいかやや不格好ではあったけれど、十分に満足のいく出来映えだった。

「へぇ、思ってたよりずっと書きやすいじゃないか!子供の頃にこれがあったらもうちょっと字が上手くなってたかもしれないな」
「今からでも遅くはないさ」

僕の肩越しにその署名を眺めていたシャーロックは満足げに笑った。

「道具が全てとは言わないが、良い道具に恵まれれば自ずとその傾向は成果物に現れる。せめて自分が書いた数字ぐらいは後で判別がつくようになる事を祈っておこう」

この意地悪な激励の言葉対し、いくつか思い当たる記憶がある僕は歯切れの悪い言葉しか返すことができなかった。

「さすがに自分で書いた数字ぐらいは読める……はずだぞ」

Notes:

Thank you so much for all the kudos and comments on my previous work! I was completely blown away by the amazing response, and it makes me incredibly happy. I hope you enjoy this story as well!