Work Text:
ふわり、と火の粉が舞い上がり岳七の視界を横切った。まだ火のついていた紙の燃えさしが黒から白へと色を変えて夕闇へ溶けていく。道に座り込んだ岳七が見るともなしに紙銭を燃やす人々に目をやっていると、小さな手にくいと袖を引かれた。
「なあ七哥、あれはなにをやってるんだ?」
岳七と同じように道に座った小九は焚き火のほうへ顎をしゃくった。小九はもの心つかない頃に家族に捨てられたので、時折世事に疎かった。
「あれは紙銭を燃やしてるんだよ。今は鬼月だから、霊界の門が開いてあの世から魂が帰ってきてるんだ。紙銭はあの世でお金になるから、燃やせば死んでしまった大切な誰かに送れるんだ」
岳七が家族と共に暮らしていた頃には、毎年一家で中元節を祝い、鬼月に帰ってくる祖先の霊を迎えていた。だが、今では家族はみな紙銭を送らねばならない遠いところへ行ってしまい、一人残された岳七は人買いに捕まって路上生活をしている有り様だった。
「へえ?本当にあんな紙が金になるんならいくらでも作るのに」
小九は興味なさげにつぶやいて目を瞑り、頭を塀に凭せかけた。髪の生え際に汗が滲んでいる。冬は凍りつくように寒いこの街は、夏になればなったで茹だるように暑かった。陽が沈んでもなお淀んだ熱気が立ち込めている。小九は暑さに参っていつにも増して気怠げだった。
小九は鬼月だろうがなんだろうが知ったことではないという態度だったが、岳七はこの時期になると死者たちが帰ってきて側にいる気がして仕方なかった。だがもし家族がこの世に帰ってきているとしても、今の岳七の姿は見せられたものではなかった。
紙銭を燃やしていた人々が去ると、街外れの辻は束の間の静寂に包まれた。小九は小さく息を吐いて目を開くと立ち上がった。
「七哥、行こう」
「うん?どこに?」
小九がスタスタと歩いていった先は祀廟だった。土埃を被って荒れた祀廟は人が来ることも稀で、岳七と小九は人買いの小屋で眠りたくない時にはここを寝ぐらにしていた。だがさすがに中元節の前日ともなると、思い出したかのように参りにくる人がいるようだ。いつもはがらんとした廟内にはささやかながらも三牲四果の供え物が置かれている。
今日はここで眠るつもりなのだろうか、と思いながら、岳七は小九の後ろをついていった。だが小九は供物の置いてある台にまっすぐ向かっていき、供え物に手をつけようとした。
「小九」
岳七は慌てて小九の手首を掴んだ。小九は岳七を睨んだ。
「止めるなよ。俺たちもう三日も何も食ってない。三日前に物乞いして手に入れた食いもんだって、腐ってて食えたもんじゃなかった」
岳七の手に収まる小九の手首は、以前より細くなったように感じられた。それでも、岳七は霊魂の存在を信じていたし、鬼月には特に、死んだ親に顔向けできないことはしたくなかった。
「祭拜の供物を盗むのは駄目だよ。それは死んだ人の食べる物だから、生きてる人が食べるときっと良くないことが起こる。小九も向こうに連れてかれてしまうかもしれない」
「死んだヤツがそう簡単に生きた人間に手出しできるわけがない。そんなことできるんならとっくに、今まで死んでった奴婢たちが人買いのことを祟り殺してる。あんたも本気で信じてるわけじゃないんだろ?」
岳七はただ真剣な顔で小九をじっと見つめた。
「…駄目だよ。良くないことがおこる」
その時、風が吹いたわけでもないのに、がたり、と廟の中で物音がした。岳七はびくりと身をすくめ、小九の手首をぎゅっと握りしめた。小九はひ、と小さく声を上げて岳七の袖を掴んだ。
「おどかすな!」
小九は声を荒げて岳七の脛を蹴った。
「私は何もしてないよ!」
「馬鹿らしい。そんなのケチな金持ちが作った作り話だ。俺らみたいなヤツに供物を食われないようにな」
小九はもともと頑固で言い出したらきかないし、このところの暑さと飢えで苛立っていた。岳七も空っぽの胃がシクシクと痛んだが、だからと言ってこれに手をつける気にはなれなかった。
岳七が口を開いて説得しようとした時、祀堂の外からぼそぼそと話し声が聞こえた。人がやって来る気配がする。また誰かが中元節の供物を持ってきたのかも知れない。
小九は岳七の手を振り払い、近くの台から焼き魚を引っつかんだ。岳七が止める間も無く祀廟の小さな窓によじ登り、猫のように素早く逃げた。蝋燭の火がふっと消え、どこからともなく生臭いにおいが漂ってきた。嫌な雰囲気だった。ぞくりと悪寒が背骨を伝い、岳七も追い立てられるように窓から外へと飛び出した。
小九はまるまると太った焼き魚を抱えて川べりに逃げ込んでいた。薄闇につつまれた川岸は、虫は多いが人の気配は全くなかった。明日の夜になればこの川にも灯籠が流れて人で賑わうのだろう。だが岳七には灯籠を買う金などどこにもなく、家族の霊が帰る道を照らすこともできないのだ。
小九は大きな石に腰掛け久しぶりの食事にかぶりついた。岳七は小九にまとわりつく蚋を手で追払いながら、黙って隣に座っていた。魚を半分ほど骨にしたところで小九が顔をあげた。
「七哥、あんたは本当にいらないのか?腹が減って苦しくないのか?」
岳七は苦笑して、小九の頬についた魚の欠片を指で拭った。
「七哥は大丈夫だよ。本当に食べたくないんだ」
死んだ魚の白い目が闇の中で浮かび上がるようにこちらを見ている。なぜだかいつになく恨めしげな目にみえた。岳七の家族は村で熱病が流行ったときに皆死んでしまったが、苦しみの跡が残る死体の目はこの魚の目の色にそっくりだった。岳七はそっと視線をそらした。
「なら好きにしろよ。あんたが飢えて倒れても知らないからな」
小九はフンと鼻をならして残りの魚もすっかり平らげてしまった。だがその晩、倒れることになったのは小九のほうだった。
岳七がふと夜半に目を覚ますと、隣に眠っているはずの小九がどこにもいなかった。他の子供たちを起こさないよう静かに表へと出ていくと、小屋の裏手から呻き声が聞こえてきた。
「小九?」
月明かりを頼りに声のする方へ向かうと、小九がうずくまっていた。
「小九?!大丈夫かい?」
駆け寄って声を掛けると、小九の背中がびくりと跳ねた。
「…七哥?」
振り返った小九は青ざめた顔でびっしょりと汗をかいていた。
「どうしたの?どこか苦しいのかい?」
岳七は隣にしゃがんで背中をさすろうと手をのばした。小九は乱暴にその手をたたき落とした。
「触るな。こんな夜中に何してるんだ?さっさと小屋に戻れ」
「そんなことできるわけないだろう?!」
小九はなおも何か言おうとしたが、苦しげに目元を歪めて口を手で覆った。
「…ふぐ…ぅ…うぐ…ぇ…」
えずく声に合わせて背中が大きく波打った。だが小九は、数日ぶりにありついた食事を地面に分けてなどやるものかというように、頑なに口元を押さえていた。
「小九、気持ち悪いなら吐いた方がいいよ」
岳七は震える背中をさすった。小九は目に涙を浮かべて耐えていたが、背中の筋肉が収縮する間隔が次第に短くなっていく。そしてついに、ごぼ、という音とともに決壊するように吐いた。ビシャビシャと水音がして胃液が地面に跳ねた。鼻をつく酸っぱい臭いが漂う。小九は顔を背け、岳七に肘鉄を食らわせて追い払おうとした。岳七は小九の肘をなんなく捕まえた。
「七哥、やめ…さわるな、汚いから……」
ぜえぜえという呼吸音の合間に、喘ぐような囁きが聞こえた。岳七は聞こえないふりをして骨張った背中を撫で続けた。小九は唇を噛み締め、怒ったようなうなり声を上げた。生理的な涙がぽろぽろと頬を伝っていた。
「…んぐっ、…おえ、げぽっ…」
溶けかけた白い塊が吐瀉物に混じり、ぼとぼとと音を立てて地面に落ちた。う“ぇ、という苦しげな声とともに、咀嚼されてちぎれた魚の頭がずるりと口から出てきた。白い目玉が月明かりに照らされて、ぬめりを帯びた光を放っていた。
一柱香ほどそうしていただろうか。やがて吐き出す物のなくなった小九は、汗と涙と胃液と唾液にまみれた顔を上げた。乱れた髪がいく筋か口元にはりついていた。
「…寝る」
小九は胃酸でかすれた声でつぶやき、ふらふらと小屋へ歩き出した。岳七は足取りのおぼつかない小九の肩を抱いて支えた。小屋に戻り水甕の底に残った水を飲ませると、小九はずるずると倒れこむように床に突っ伏した。岳七は湿らせたボロ布で小九の体を拭いたが、小九はされるがままだった。ただ荒い息を吐き、小さく痙攣して先ほど飲んだ水をけぽりと吐いた。岳七はひどく恐ろしくなり、小九を横向きに寝かせて一晩中手を握りしめていた。
夜が明けても小九は目を覚まさなかった。小屋で眠っていた子供達は、小九がぐったりしているのを見て、ある者は珍しがったり、ある者は心配したり、ある者は良い気味だと笑ったりと様々な反応をしていたが、人買いに追い出されて街へと散って行った。
岳七は小九のそばでおろおろするほかなかった。医者を呼ぶなんて到底無理な話だった。岳七の様子を見かねたのか、大姐が側へとやってきた。
「あんたが心配したってどうにもなんないよ。暑さにやられたか、変なものでも拾い食いしたんだろ」
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。岳七は小九が死者の食べ物に手をつけたせいであちら側につれていかれてしまうなど考えたくはなかった。ただ暑さで体を壊したか、あの魚が腐っていたかだと信じたかった。
「…そうかもしれない。小九、昨日吐いてた」
「水を飲ませて栄養のつくものを食わせたら良くなるよ。そんなに思い詰めなくたっていいさ。目が真っ赤になってるよ、岳七」
大姐は困ったような顔で笑った。
岳七はそのまま小屋で小九を看病していたかったが、人買いがそんなことを許してくれるはずもなかった。それどころか、これが人に感染る病なら売り物の在庫が台無しになってしまうと道に放り出された。
仕方がないので岳七は小九を背負って街外れの廃屋へと歩いていった。寝込む小九をいい気味だと笑っていた十五が、昨日小九と岳七の座っていたあたりに陣取っていた。いつもなら、縄張りを奪われたら走ってぶちのめしに行くだろうに、岳七の背中に張り付く体温はぴくりとも動かなかった。岳七は小九の喧嘩の仲裁役だったが、こんな風に弱っている小九を見るよりも、いつものように他の奴婢たちに啖呵を切っている姿を見るほうがずっと良かった。街はあいかわらず地獄の釜の中みたいに暑い。額の汗が目に染みて視界が滲んだ。
岳七は蜘蛛の巣をかき分けて廃屋へと入っていった。壊れた壁から光が差し込み、埃っぽい空気に筋を作っていた。
「小九、小九」
岳七は床に寝かせた小九へと祈るように呼びかけた。こんな姿を見ていると、売られることなく死んで消えた他の子供たちを嫌でも思い出してしまう。
「…七哥」
小九は細く目を開いた。だが、「寒い」とつぶやいたきり、胎児のように手足を縮こめてまた目をつぶってしまった。
路上で生きていたら、昨日まで元気にしていた人が急に病みついてあっという間に死んでしまうのを嫌でも目にする。人の命は案外あっけないものだ。岳七の家族が寝込んだ時だって、まさか皆そのまま死んでしまうなど思いもしなかった。小九がこのまま死者に連れていかれないよう、岳七は心の中で必死に祈った。
小九はその日ずっと眠り続けた。玉のような汗を浮かべ、うわごとのように寒いと繰り返した。岳七はぬるい水で布を湿らせて小九の汗を拭いた。触れた体はびっくりするほど熱かった。小九の肌はいつもにまして色褪せ、蝋のように白くなっていた。
「水を飲ませて栄養のつくものを食わせたら良くなるよ」
大姐の言葉を縋るように思い出した。岳七は小さく丸まる小九の頭を撫で、廃屋を後にした。日はとうに暮れていた。橙色に燃える灯籠が川を流れ、喧騒とざわめきが聞こえてきた。岳七は光に背を向けて駆けて行った。
川から離れた一画に、桃の木がある大きな邸宅があった。普段は警備が厳重で、塀の向こうに実がなっているのが見え隠れしていても、盗みに入るなど到底無理だった。だが中元節の夜ともなると、家のものは出払い、使用人も暇をとっているのかほとんど見当たらなかった。岳七は塀をよじ登って庭園に忍び込んだ。桃の木には熟れた実がいくつもみのり、宵闇に甘い香りを振りまいていた。岳七は桃に手を伸ばして息をつめた。鬼月にこの世にいるのは生きた人間だけじゃない。誰もいないと思っていても、きっと誰かに見られている。小九のためだからといっても盗みは盗みだ。人に顔向けできるよう真似じゃない。それでも。
岳七は微かな毛の生えた果実を掴んだ。そっと息をひそめて幾つももいだ。鼓動が早鐘を打ち、冷たい汗が背中を伝った。あるはずのない視線を首筋に感じる。どこかで犬の吠える声がする。鳴き声はだんだんと近づいてきた。白い魚の目が、死んでいった家族の目が、人買いの下で生き残れなかった子供たちの目が岳七の脳裏をちらついた。死者たちの視線がつきささる。岳七は盗んだ桃を懐に入れ、塀を乗り越えて力一杯走った。
「小九、小九、起きて」
岳七は小九の腕を軽く揺さぶった。小九は薄く目を開いた。
「七哥、かえってきたのか?」
ぼんやりした目が月の光を反射して水たまりみたいに光っていた。
「当たり前だろう?桃を持ってきたんだよ」
ひび割れた唇に桃の実を押し付けると、薄い唇が柔らかく形を変えた。小九はぷいと顔を背けた。
「…いらない。きもちわるいんだ。あんたが食えよ」
小九の目元は窪み、薄い皮膚に紫がかった隈ができていた。だぶついた服の隙間から骨の浮いた体が覗く。なんだか絵草紙で見た餓鬼じみていて、岳七はいよいよ怖くなった。小九が連れていかれてしまう。
「小九、食べて、お願いだ」
岳七は小九の頭をささえて抱き起こした。細い体は頼りないほど軽かった。岳七は桃を一口かじって、小九に口づけた。唇が触れ合うと、淀んだ瞳で虚空を見ていた小九が驚いたように目を見開いた。桃の味が口の中に広がって、柔らかな香りが鼻へとぬけた。岳七が食べ物を口にするのは何日ぶりだっただろう?口腔に唾液が溢れたが、岳七は桃のかけらを舌で小九の唇に押し付けた。小九は大人しく口を開いた。桃が小九の口の中へと転がり込む。小九はゆっくりと桃を噛んで飲み込んだ。
「…あまい。もっと、もっと欲しい」
小九はぺろりと舌を伸ばして岳七の唇を舐めた。かすれた声を聞いて岳七の心臓がどきりと跳ねた。岳七は桃をもう一口かじり、親鳥が雛に餌を与えるように小九に食べさせた。何度もそうしているうちに、二人の口元は桃の汁でべたべたと濡れた。
「七哥も食べて」
小九は岳七の首に手を回した。ぐい、と岳七の頭を押さえつけるように距離を詰めると、小九は岳七の口内へ舌を差し込んだ。桃のかけらが岳七の口の中へと戻ってくる。小九の舌が岳七の舌に絡んでざらりと擦れ合った。岳七がごくりと桃を飲み込むと、小九は悪戯っぽく目を細めた。
「七哥もあまい?」
数日ぶりの食事が胃の腑に染みた。眩暈がするほどに、痛いほどに甘かった。岳七がうなずくと、小九はくしゃりと顔をゆがめて笑った。
「ならあとは七哥にやるよ」
小九の柔らかな産毛が月あかりに照らされて銀色に輝いていた。桃のようだな、と岳七はぼんやり思った。小九の舌は桃よりもずっと甘かった。岳七が痛いほどに欲しているは桃なのか小九なのか、よく分からなかった。
「だめだよ、まだあるからもっと食べて。水も飲んで、ね」
岳七は水を口に含んで小九に口付けた。白い喉仏がこくりと動き、飲み込み損ねた水があふれて小九の首筋をつたっていった。小九は桃の汁でべたつく岳七の指を小さな舌で舐めた。
「まだ、あるの?」
小九は強請るような視線で岳七を見上げた。岳七は小九の濡れた唇を吸いよせられるように見つめた。あの甘い味をもっと、もっと味わいたい。その思いは二人とも同じだった。
「うん、馬鹿みたいにいっぱい盗んできたから」
それを聞いた小九はかすれた笑い声を立てた。岳七もつられて小さく笑った。産毛の生えた皮にぶつりと歯を立てて、柔らかい果肉を口にする。甘い果汁が口いっぱいに広がった。桃ではなくてこの子を腹におさめられたら良いのに。そうすればずっと一緒にいられる。馬鹿げた妄想から引き戻すように、小九は岳七の唇を甘噛みした。噛んで、口に含んで、食べさせて、互いの唇を味わって、幾つも桃を分け合った。甘い、甘い夜だった。
水を飲んで栄養のつくものを食べ、よく眠った小九は、次の日には体調が良くなっていた。まだ少しだるそうにしていたものの、いつもの調子を取り戻したように岳七に文句を言った。
「病気のやつに口移しでものを食わせるなんて正気なのか?悪い気がうつってお前まで倒れたらどうする?二度とするな。それに、こんなこと他の奴には絶対にするな」
「わかったよ。小九にしかしない」
「俺にももうするな」
岳七は肩をすくめた。小九は岳七の袖をひっぱり、もごもごと何か続けようとしたが、結局言葉にはならなかった。ただ耳が真っ赤に染まっているのがよく見えた。岳七が何かいう前に、小九は照れ隠しでもするような勢いで廃屋を飛び出していった。
岳七が小九に追いついた時、小九は物乞いの縄張りを奪っていた十五へ勢いよく飛び蹴りをかましていた。十五は地面に倒れ、ガチャン、と音を立てて金を集めるための黒い木鉢が吹っ飛んでいった。小九は悪鬼のような形相で十五と掴み合いの喧嘩を始めた。病み上がりにしてはずいぶん威勢が良かった。岳七は泣き笑いして、暴れる小九をひっぺがした。
「わかったよ、お前が一番強いよ」
岳七はあきれたように首を振ったが、内心ではほっとしていた。小九が元気になって本当に良かった。小九には二度とするなと言われたが、小九が病気になったら何度だって同じことをするだろう。小九を失わないためなら岳七はなんだってできた。
そのはずだったのに。
岳七は秋府に売られた小九を助けられず、小九が何よりも岳七を必要としていた時に裏切ってしまった。その信頼は二度と取り戻せない。許されたいと願う資格すらなかった。小九の恨みを受け止めることが、岳七にできる唯一の償いだと思っていた。それでも岳七とって、岳清源にとって、小九が何より大切であることに変わりはなかった。
蓮の花の形をした紙製の灯籠が川を流れていく。岳清源は手に持った灯火をそっと川へ浮かべた。
中元節になると、蒼穹山派の峰主たちは麓の街へと降り、街の人々と共に死者の魂を送り出すのがしきたりだった。岳清源はいくつもの灯籠が盛大に黄泉路を照らすのを、ぼんやりと眺めていた。
「掌門師兄」
振り返ると穏やかな笑みを浮かべた沈清秋が立っていた。
「小…清秋師弟、久しぶりだね。元気にしていたかい?」
「はい、おかげさまで息災です」
清静峰峰主である沈清秋は弟子であり道侶である洛冰河が魔王である…というややこしい立場なので、魔界と清静峰を行ったり来たりして過ごしていた。柳師弟は蒼穹山派に洛冰河立ち入り禁止の規則を設ける、と息巻いていたが、岳清源は掌門としてそれを规训石に刻むつもりはなかった。岳清源とて洛冰河に思うところが無いではないが、なんと言っても彼は沈清秋の道侶なのだから。そして、蒼穹山派は永遠に、沈清秋がいつだって帰ってこれる場所なのだから。ここしばらく蒼穹山派では沈清秋の姿を見なかったが、つつがなく暮らしているようで安心した。
「そういえば、この川の上流の村で魔物に転じていた魚を退治してくれたそうだね。ちょうど蒼穹山派に討伐の依頼が来ていたけれど、こちらが動く前に解決してくれて助かったよ」
「ああ、あの魔物には偶然行き合ったのです。私が魚が食べたいといったら、あの村のあたりでは美味い魚が釣れると弟子が教えてくれて。共に釣りをしていたら魔物に襲われたのですが、私と弟子の敵ではありませんでしたよ。釣った魚で弟子が清蒸鱼チンジャンユーを作ってくれたのですが、あれは本当に美味しかった」
沈清秋のいう弟子とは洛冰河だろう。その時のことを思い出しているのか、目元に柔らかな光が浮かんでいた。
「それは良かったね」
相槌をうちつつも、岳清源はどこか不思議に思った。沈清秋は魚が嫌いなはずだ。まだ岳七と沈九が路上で暮らしていた頃に、祭拝の供物の魚を食べて手ひどく体調を崩して以来、沈九は魚を食べなくなった。蒼穹山派に入門してからも、首席弟子として、峰主として宴に出席した時には、沈清秋が絶対に魚に手をつけないと、岳清源だけは気づいていた。
あの熱病以降、沈清秋は記憶に欠落が出ているようだが、やはりこれも忘れてしまったのだろうか。とはいえ、長年にわたる食の好みはそう簡単に変わるものなのだろうか?
「魚といえば清秋師弟は…」
岳清源が口を開いたとき、ゴチンという衝撃と共に立ちくらみが襲ってきた。岳清源の視界が暗転した。
「掌門師兄?岳師兄?大丈夫ですか?」
沈清秋は突然虚空を見つめて黙り込んだ岳清源に、心配そうに声をかけた。岳清源はパチパチと瞬きした。
何を言おうとしていたのだか…忘れてしまった。忘れてしまったのならば、きっと大したことではなかったのだろう。
「ああ、何でもないよ」
岳清源は穏やかに微笑んだ。蒼穹山派に変わりはないよと、ひと通りの世間話をした後に沈清秋は立ち去っていった。翡翠色の衣をひらめかせる後ろ姿は優雅で涼しげな峰主そのものだった。
沈清秋の向かった先には、灯籠を抱えた洛冰河がいた。灯籠の炎に沈清秋の柔らかな笑みが照らされる。洛冰河の瞳は沈清秋の優しい笑顔だけを映していた。
岳清源は目を細めて見送った。
あの子の隣に立つのが自分ではなくとも。あの子が記憶を失って変わってしまったとしても。あの気難しくて口が悪い姿をもう見られないのだとしても。
あの子が幸せならばそれでいい。
岳清源は締め付けられるような寂しさを心の奥底に沈めた。
【恭喜。岳清源が沈清秋の入れ替わりに気づくきっかけを阻止しました。岳清源の寿命ポイント、プラス10ポイント】
人ならざる精霊の独特な抑揚の声が響いた。
「フン、馬鹿な七哥」
沈清秋は…沈九は鼻を鳴らし、巨大な锤子をくるりと回して肩に担ぎ直した。
厳しい見た目をした武器だったが、これで力一杯岳清源を殴ったところで、実際に怪我をするわけではない。ただ少々、前後の記憶が飛ぶだけだ。
水牢で死んだ沈清秋は、岳清源の末路を受け入れられなかった。あいつはこんな風に死んでいい人間じゃない。俺のようなクズの悪人と関わらなければ、玄粛が絶たれ岳清源が死ぬこともなかったろうに。もしももう一度、やり直すことができたなら。そう強く願う沈清秋の頭の中に、自らを『システム』と名乗る精霊の声が響いた。
【もう一度、やり直すことを望みますか?その世界に貴方の居場所がなくなったとしても】
それは沈清秋の望むところだった。そうして、システムは沈清秋の魂を別の世界線へと連れていき、その世界の沈清秋に別人の魂を入れた。
【沈清秋の魂が入れ替わっても、誰も気にしないでしょう】
そうだろう。沈清秋は己が皆に嫌われているとよく理解していた。沈清秋は熱を出して寝込む己の体を見つめた。否、これはもう己の体ではなかった。
【ですが岳清源だけは別です。貴方が永遠に失われたと気づいたら、この世界の結末はあちらの世界の結末と同じものになるでしょう】
竹榻の側に岳掌門が腰掛けて、沈清秋を気遣わしげに見つめていた。馬鹿な、馬鹿な七哥。沈九を助けに秋府へ帰るのをやめて蒼穹山派で修仙すると決めたのなら、再会した後に突き放せば良かったのに。
岳清源が沈九に関わろうとしたのは罪悪感からだったのか、過去を暴露されたくなかったからなのか、沈九は知りたくもなかった。だが岳清源が沈九に向き合わず、ただ謝り機嫌をとろうとするたびに、岳清源が沈九を心底クズだと思っていると嫌でも感じてしまった。その通り、沈九は秋府を滅門し、師父を殺し、弟子を虐待し、七哥に見捨てられたと知るよりは七哥が死んでいたほうが良かったと願った正真正銘の悪人だ。岳清源がかつてのように沈九を信頼することは二度とないのだろう。
ならお前はなぜ帰ってきた、岳掌門?なぜ明らかな罠だとわかっていて飛び込んだ?沈九にはわからなかった。
【それはどうでしょう。沈清秋の働き次第では、岳清源が帰ってこなかった真相もわかるかもしれませんね?】
沈九は顔をしかめた。もし沈九とシステムとやらに実体があるのなら、知った風な口をきくシステムを吊り下げて打ち据えてやりたかった。
【貴方にこの锤子を差し上げます。でも貴方が打ち据えるのはこのシステムではありません!】
システムはどこからともなく巨大な锤子を出現させた。锤子には『100t』という記号が刻まれていたが、沈九にはこれがどういう意味を持つ意匠なのかよくわからなかった。
魂だけになった沈九はこの世界に干渉できず、姿を見せることも、声を聞かせることも、何かに触れることもできない。だがこの锤子には触れられた。
【この锤子で岳清源を殴ると、岳清源の寿命ポイントを獲得できます。岳清源を殴って、魂の入れ替わりに気づくのを阻止し、世界の結末を改変してください】
その時、沈清秋が目を覚まし枕元の扇を掴んで勢いよく顔を隠した。沈九が沈清秋の顔を覗き込むと、だらだらと冷や汗をかいているのが見えた。
「おれは…今、どこにいるんだっけ?」
沈九が言いそうもない間抜けな言葉だ。岳清源は驚いた顔をした。騒ぎ立てられると面倒だ。沈九は锤子で勢いよく岳清源を殴った。岳清源は一瞬かたまり、再び動き出す頃には違和感を忘れたように言葉を続けた。
「寝ぼけているのかい?ここは君の清静峰じゃないか」
【恭喜。岳清源が沈清秋の入れ替わりに気づくきっかけを阻止しました。岳清源の寿命ポイント、プラス50ポイント】
その日以来、沈九はずっと岳清源にひっついて、何か余計なことを言ったり考えたりしそうになるたびに殴って止めた。システムのいう『OOCモード』とやらを沈清秋が解除してからは、沈九はますます頻繁に岳清源をぶっ叩いて黙らせた。
沈清秋の振る舞いは極度にOOCだ。そもそも、沈九があんな顔で笑うはずがない。別人なのだから当然だが。
沈九が岳清源を張り倒してはコツコツ貯めていた『岳清源の寿命ポイント』は、埋骨嶺で岳清源が玄粛を抜いたせいで全部飛んでいってしまった。寿命ポイントがなければ重症ではすまなかった。まさか玄粛が岳清源の生命と繋がっているなど、前世の沈九は想像だにしなかった。沈九はこれからもまだまだ岳清源を叩いてポイントとやらを集めなければならない。
沈清秋は死んでみせたり、小畜生と道侶になったりと、沈九が泡を吹いて卒倒することばかりやってのけた。だが蒼穹山派が滅びるのを阻止し、魔界と人界が融合するのも阻止した。大したものだ。沈九ならば迎えられなかった結末だ。
蒼穹山派は燃え落ちず、岳掌門は死なない。それがある限り沈九は満足だった。
「お前はそのまま気づかなくていい」
沈清秋の後ろ姿を見つめる岳清源に囁いた。沈清秋のおかげで、沈九はなぜ七哥が秋府に戻って来なかったかを知れた。だからといって、沈九が岳清源に怒っていることに変わりはない。
秋府に迎えに来なかった理由を話さなかったこと。来るなと言った時に限ってやってきたこと。水牢でお前の命などいらないと言ったのに、失せろと言ったのに、沈九を迎えにきて勝手に死んだこと。それが何故なのか、いつか岳清源の口から直接聞くまで、ぜんぶ本当に怒っているから。
その命が終わるまで、悪霊として取り憑いてお前を殴り続けてやる。
灯籠の光に混じって、寄る辺なき魂たちがふよふよと水面を渡っていくのが見える。沈九がそちらに着いていくのは、まだずっと先だった。川べりでは誰かのために紙銭が燃やされている。だが沈九のために紙銭が燃やされることはない。死んだことすら気づかれないのだから!だが沈九はさほど気にしていなかった。どのみち今度は最後まで、岳清源についていくつもりだった。いずれ時が来たならば、掌門のために燃やされる紙銭が嫌というほどあるのだろう。
「…せいぜい長生きしろ。長く苦しめてやるからな」
沈九は触れることのできない指で、七哥の額をピンと弾いた。
「小九?」
ふ、と岳清源が沈九の方を向いた。二人の目が合ったような錯覚をおぼえる。
さらさらと風が吹き、紙銭の燃えさしが岳清源の視界を横切った。小さな炎が灰へと変わり、空の中へと消えていく。風に押し流された灯籠が水面の上を散っていく。
岳清源は、何故いまその名を呼んだのか、自分でも不思議に思い首を傾げた。その呼び声への返事を、岳清源が聞くことはまだない。
