Work Text:
「ちょっと休憩。」
アキはため息をついて鈴木の手を離し、ボトルから水を飲むと、自分のスマホを手に取った。房子からの連絡を確認すると同時に、トイレに立った鈴木が脱ぎ捨てたシャツのポケットの中で、彼の年代物の携帯が震え始めた。
今日の鈴木はやけに浮き足だっていて、どうにもアキとダンスのタイミングが合わない。例の「俺は楽しい、お前もだろ。」が噛み合わない日だ。楽しいのは結構な事だけれど、一体何がそんなに楽しいのかわからないままでは、アキとしてもついていきようがないのだが「あんた、なんかあった?」と聞いたところで、にべもなく「別に。」と言うだけ。別にという言葉は大抵何かある時にしか出てこないと相場は決まっているので、何かあったには違いない。しかし探ろうと覗き込んだ視線は交わされ、ステップはすれ違う。
「信也、さっきケータイなってたよ。」
トイレから戻ってきた鈴木は、寝不足の癖に憎らしい程顔色が良い。
「あ、ねえ房ちゃんから今日の練習……」
「もしもし、杉木?」
アキの話を遮るように、着信履歴を確認するなり鈴木がかけ直した相手は杉木らしい。
「あぁ、わかった。大丈夫。うん、言っとく。あ、まって、あのさ……いや、何でもない。じゃ、後で。」
何かを言いかけてやめる歯切れの悪さは、やはりいつもの彼らしくない。
「杉木、今日の夜の教室のレッスンキャンセルんなって、一時間早く俺らの練習できるって。」
「うん、房ちゃんから連絡きてた。ってか、杉木先生わざわざあんたに電話くれたの?」
練習関連の連絡はいつもグループチャットで行われ、スマホを持っていない鈴木には、必然的にアキが伝言する事になる。これまでだってそうしてきたのに、今日に限って杉木はわざわざ鈴木に電話を入れたようだ。
「あんたさ、いいかげんスマホにしな?おじいちゃんじゃないんだから。」
「めんどくさい。」
「めんどくさいのはこっちだっつの。」
「そうだ、お前パスポートの期限確認しとけよ。ワールドチャンピオンシップ出る事にしたから、俺らと、杉木らで。」
「は?なにそれ?ワールドって……二ヶ月後じゃない?何も聞いてないんだけど。」
「昨日杉木と決めた。」
クリスマスの昨日は練習日ではなかったのに、彼は杉木と会っていたのか、電話をしたのか、いずれにしてもだ。
「勝手に決めんなよ!」
「なに、出ねぇの?」
「いや出るけど、そりゃ出るけどさ、なんであんた達はそういう大事な事を私と房ちゃんに相談しないで二人で決めちゃうの?」
鈴木は少しバツが悪そうな表情を浮かべて、何かを誤魔化すような間を置いた挙句、結局答えは返って来ない。煮え切らない。幾つになってもアキが出会った頃の少年のような、純粋さと言えば聞こえはいいが、即ち単純さを失わない彼らしくもない。絶対に何かが起こってる。
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「アキ、走れよ!」
「ちょっと、信号赤だってば、待って!」
遅刻していてもまだ悠然と歩く鈴木をアキが追い立てた初日が嘘のように、今日は練習時間が早まって十分余裕があるにも関わらず、鈴木は何かに掻き立てられるように大股でずんずん歩いてゆく。なんとアキの荷物まで持ってくれている。
「時間通りですね。」
若干息が切れてる鈴木とアキを、杉木はいつもと変わらぬ調子で迎え入れた。
四人でアップをして、アキはいつも通り房子と練習をすると、間もなく終電の時間になった。ボールルームは特にリードの方が覚える事が多いため、いつも男二人で居残り練習をしているのだが、今日はいつにもなく鈴木から、早く帰れとせっつかれ、アキは房子と早々に帰路に着いた。
「ねぇ房ちゃん」
静寂を破るように、アキは房子に話しかける。
「……あれ、二人なんかあった?私今日、練習見ててこう、なんていうか、うまく言えないんだけど……。」
いつもならセッションの度に衝突しては、こちらの練習の腰まで折ってくる二人が、今日は妙に呼吸が合っていた。ぶつかって反発してばかりだったエネルギーの強さはそのまま、それどころか増しているのに、それが不気味なほどかちりとはまっていくような。アキとは揃わなかった「俺は楽しい、お前もだろ」が、杉木とは相乗効果を産んで、二人でぐんぐん加速していくような。
「あんなに興奮してる杉木先生、はじめて。」
「えぇ〜、確かに今日はやり易そうだったけど、信也はともかく、先生はそこまで変わらなくない?」
「いいえ、すごく浮き足立ってた。まるで……。」
房子は言葉を探すように、一瞬言い淀む。
「恋してる人みたい。」
それは数週間前に、アキが鈴木に言ったのと同じ言葉だ。アキが薄ら鈴木の様子から感じでいた事を、アキには読み取れない杉木の微妙な様子から、房子もやはり感じとっているようだ。
「やっぱり……そういうこと?」
房子と目を見合わせる。……暗黙の話題に触れる時が、とうとうやってきたわけだ。
「あいつが恋かぁ……。」
まだ互いに子供と呼んで良い程若かった昔に、アキ自身鈴木と付き合った事もあるけれど、ここ数年の彼には特定の恋人はいない。相手が相手だけに、柄にもなく本気なのだろう。親友として、単純な気持ちで言えば当然その恋路は応援したい。
しかし相互コーチをしているダンサー同士での色恋というのは正直不安の種だ。双方の性格から考えても、穏やかなお付き合いは到底望めそうにない。拗れたら確実にアキと房子はとばっちりを食うわけで、ペアダンスをやっている以上、パートナーの恋愛、特に業界内でのそれは、必ずしも他人事と切り分けられるものでもない。
「……先生は、過去に色々あったから、私としては、応援してあげたいかな。」
房子は静かにそう言った。
杉木の過去に何があったのか、業界では有名な話なので、アキもちらと耳にした事はある。典型的なダンサー同士の三角関係で、杉木は文字通り公私共にパートナーだった女性を、他のダンサーの男に寝取られたのだ。そんな所に心の機微がなんたるかもわからない鈴木が首を突っ込んで、果たして無事で済むのだろうか。
「……大丈夫かなぁ、うちの信也で。」
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「アキちゃん、世界戦デビューでファイナリスト入りおめでとう!すごいよ!」
「ありがと房ちゃ〜ん!房ちゃんも準優勝おめでとう!」
二ヶ月前に出場を決めたワールドチャンピオンシップが、無事に閉幕した。待ち合わせをしたパブに到着した房子と、アキはハイタッチを交わす。
「鈴木先生は?」
「……信也ね、荒れてるわ〜。明日フライトなのに絶対二日酔いだよあいつ。あーめんどくせー。」
「私……余計な事言っちゃったかな。リアナさんの事、先生の元恋人だって。」
「いいよいいよ、どうせ遅かれ早かれわかる事なんだから。最初に房ちゃんから聞いといて、まだましだったよ。」
渡英してからというもの、ただでさえ激しい鈴木の感情の振れ幅が、杉木の一挙一動に過剰反応して制御不能だ。無事に自分たちの舞台を踊り終えられたからよかったものの、大会前には嫉妬に駆られてボールルームチャンピオンのジュリオに食ってかかり、結果杉木がまたも二位で終わった事に一人でキレ散らかして、彼の振付師とデザイナーに八つ当たりをした末、杉木と彼の元恋人リアナの見事なオナーダンスを目の当たりにして、その後の房子のダンスも観ずに、今にも泣き出しそうな顔でそそくさと会場を去ってしまった。
せっかくファイナリストに残ったのだから、祝勝会をしようとアキが呼びに行った時にはもう既に、煙の充満する部屋でやけ酒を浴びて目が座っていた鈴木に、アキはすげなく追い返された。
「オナーダンス、パートナーチェンジするなんて直前に言われて、焦ったよ。」
「主催者も悪趣味だよね。でも房ちゃんは素敵だったよ!皆はさ、杉木先生の悲恋ばっかり噂して持ち上げるけど、今日の一番の被害者は房ちゃんだよ。偉いよ房ちゃん、うちの信也も含めて痴情の絡れに付き合ってやってさ。飲みな?今日は私の奢り!」
房子はふんわりと笑うと、くいっと一気にペールエールを飲み干した。
「よし、アキちゃん、踊ろ!」
パブの奥では、地元のおじさんバンドによる熟れて気楽な生演奏に合わせて、大会の関係者も素人も、思い思いのステップを踏んでいる。房子と手を取り合って躍り出ると、小さなパブのフロアに心地の良い活気が広がった。
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イギリスで幾つか用事が残っている杉木と房子を残して、鈴木とアキは日本に帰国した。案の定二日酔いの鈴木は、それでも普段なら悪態の一つはついてくるのに、やけに静かで、その目は真っ赤に充血していた。——どうやら心配していた事が起こったらしい。
帰国後も練習を再開しようとしない鈴木を、アキは数日の間一人にしておいたが、着信もメールも無視され続けるのに痺れを切らし、とうとう彼の家に乗りこんだ。
「信也、私気づいたよ。私はもっとできる。私たちはもっとやれる。」
はじめての世界戦でファイナリストに残り、鈴木だって手応えは感じた筈だ。ここで足踏みはしたくない。辛くても悲しくても、そんな時だからこそ踊るのだ。だって彼らはダンサーなのだから。
「あんたならさ、どこまでだって行けんじゃん!」
溢れ出てしまいそうな感情をぐっと堪えるように、突然強く抱き寄せられた腕から、鈴木の痛みがアキに流れこんできた。深い悲しみ。こんなに深く傷ついた彼を感じるのははじめてだった。彼の堪えている涙が、アキの目から溢れ落ちた。崩れ落ちそうになりながら必死に立っている彼を、アキは力強く抱き返す。一人では立っているのも辛い時、手を差し伸べて支えになるのがダンスパートナーだ。彼の悲しみを一緒に抱えて踊る覚悟は、とうに出来ている。
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アキと鈴木はプロデューサーと打ち合わせをし、次の大会に向けてコスチュームとヘアスタイルを一新した。
杉木と房子とのグループチャットは、ワールドチャンピオンシップ以来音沙汰がない。アキはジェルで固めた新しいヘアスタイルの写真を、迷った末に房子に直接送った。直ぐに彼女から返信が届く。
—アキちゃん素敵!すごく似合ってる!
隣で襟足を揃えている鈴木をちらりと見て、アキは房子に返信した。
—房ちゃん、二人で会わない?
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「アキちゃん!こっち。」
久々に会う房子の変わらない柔らかな表情に、アキはほっと肩の力が抜ける。杉木ダンススタジオの近く、いつも終電間際に帰る時には閉店していて、いつか二人で入りたいねと言いつつ、これまでその機会がなかったカフェで、アキはラテを注文し、テラス席に座った。
「鈴木先生、どう?」
「うん、なんとかやってるよ。杉木先生は?」
房子はゆっくりケーキを頬張り、紅茶を一口飲むと、背筋を伸ばした。
「あんまりうだうだしてるから、私先生に言ってみたの。鈴木先生と気まずいなら、他の先生にレッスン頼んだらどうですかって。」
「……度胸あるね、房ちゃん。」
正直杉木と房子は、アキと鈴木よりも心理的な距離があって、房子が杉木に習い従う上下関係だとアキは思っていた。しかしアキ自身は何でも言える兄妹のような関係の鈴木相手に、同じ事は言えない。そもそも杉木はただでさえ物申し辛いノーブルな雰囲気で、そんな杉木に対して挑発めいた事を言ってのけるとは、房子はこれで案外肝が据わっている。
「だって、答えは絶対にノーだから。言ったでしょ?ラテンを習うなら鈴木先生じゃないと嫌だって駄々こねてたって。」
杉木が駄々をこねる姿は、まだアキには想像がつかない。きっと恋をし始めた兆しと同じように、傍目にはとてもわかりにくいのだろう。
「……信也もね、アジアカップを言い訳にして私とは頑なに練習しようとしないけど、ボールルームを諦めたわけじゃないんだよね。たまに私が見てないと思って、一人でシャドーしてんの。でもホールドの大きさが明らかに私のサイズじゃないんだよな。……タバコ吸っていい?」
「どうぞ。」
アキはケースからタバコを一本抜いて、火をつける。ため息と共に吐き出した煙が、まだ冬の名残りの残る冷気に溶けて消えた。
「あいつ、初めてまともに失恋したんだろうな。ちゃんと立ち直れるのかな。」
「大丈夫よ。先生は、絶対に諦めないから。諦められないから。鈴木先生のこと。」
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「杉木先生と房ちゃん、ゲストだよね。来てるんだよね。」
ラテンでエントリーしたアジアカップで、鈴木とアキは順調に勝ち進み、後は決勝を残すのみとなった。
「もう二度と競技外では会わない。」
来るもの拒まず去るもの追わずの鈴木が、特定の誰かに会わないなどと宣言した事はかつてない。誰かにそこまでの執着をみせた事はない。しかしそう言葉にしないと居ても立っても居られない程、会いたくて堪らないのだろう。
「ブラックプールであいつを観て思った。俺たちがやってるのはダンスだ。客もダンサーも一緒くたになって、魅せられて感じるものだろ。俺もあんなふうに観客を腰砕にしたい。」
アキは小さく微笑んで、頷いた。大丈夫、この悲しみを糧にして彼は、彼らは踊っていける。
奮闘の結果虚しく、鈴木とアキは下馬評通りの三位だった。政治抜きで順位をひっくり返すのは難しい世界で、世界大会の会場で大声で悪態をついてしまうような鈴木は、絶望的に政治に向いていない。二人が世界に出る権利を得ながらも、これまで国内大会だけに絞って賞金を稼ぐ小物に留まっていたのは、それなりの理由あっての事だ。しかし杉木に鼓舞されて、世界の舞台に足を踏み入れた。今日はその長い道のりを推し測るための第一歩だ。
表彰式が終わって競技者が脇に捌けると、杉木と房子のデモンストレーションの呼び出しがかかった。鈴木は後ろを向いたままダンスフロアを見ようとはしない。本当は見たくて仕方ないくせに、まだ失恋でガタガタで、彼の姿を見たら崩れてしまいそうなのだろう。
——いいよ信也、あんたが向き合えるようになるその日まで、私が代わりに見といてあげる。
アキが視線を定めたダンスフロアにしかし、杉木は房子を伴わず一人で現れた。ゆっくりと厳かに一礼すると、彼は真っ直ぐこちらに向かってきた。
「僕と踊ってくれませんか。」
まだ後ろを向いたままの鈴木に差し出された手。鈴木は引き結んだ口元から溢れないように必死で体裁を保っているけれど、アキには分かる。触れてもいないのに、彼の感情が伝染して爆発しそうだった。鈴木はゆっくりと後ろを振り返ると、杉木の手を取った。ダンスフロアに向かう最中に三位のメダルを投げ捨てる無礼っぷりは、相変わらず先が思いやられるけれど、フロアの真ん中で愛する人と向き合った彼は、どこまでも飛んでいけそうな喜びに満ち溢れている。
気づけば隣に房子がいた。いつものように柔らかく浮かべた彼女の微笑みが、言ったでしょうと穏やかに語りかけてきた。
杉木のリードでワルツを踊る二人の姿は、悔しくなるくらい美しい。リードに身を委ねて踊る心地の良さを、主導権を握る事と同じくらい重要なフォローの仕方を、彼はこの恋を経てようやく学んだのだろう。どんなに身体が成長しても、アキの目にはいつまでも少年だった彼が、はじめて少しだけ大人の男に見えた。
二人はリードとフォローを自在に入れ替えながら、ボールルームとラテンの各種目をそれはもう楽しげに踊り繋ぎ、最後の種目、ヴェニーズワルツの音楽が、観客の声援で温まった会場に流れ始めた。
「踊ろう、房ちゃん!」
アキが房子の手を取ってダンスフロアに躍り出ると、他のダンサー達も彼女達に続き、中央で踊る恋人達を祝福するように、ワルツの輪が会場いっぱいに広がった。
