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海のダンスに よりそって ~ Beside the Dancing Sea ~

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「今朝の海岸沿いでは、美しい春の訪れを感じることでしょう! その美しさはいわば『昨日の空から曇りをわずかに払ったような空』。最高気温は15℃、最低気温は10℃。外出の際は薄手の上着で、さわやかな春の海風を感じてみましょう!」

 乗っていた車が『トーヴィル・コーヴへようこそ 人口5,387』とうたう白い看板の脇を走り抜けると、ヴィクトル・ニキフォロフはラジオのチャンネル・スイッチをまわした。少ししてから、流行音楽ランキング・ベスト40の熱狂ぶりに耳を侵されちゃかなわない、とばかりにふたたびチャンネルをまわす。

 さらに数分、実りなくチャンネルをまわしつづけたのち、ヴィクトルはラジオを切って車窓を開け、風が自分の銀髪を撫でていくにまかせた。助手席では、かわいがっているプードルのマッカチンが窓からぴょこんと顔を出して、運転するヴィクトルの隣で両耳と舌をぱたぱた風にはためかせている。

 左手に広がる外海の青は車と追いかけっこをつづけ、波に削られた壮麗な断崖は緑かがやく群葉をいただいて、ともにはるか先へゆるやかな弧を描いていく。

 ぽつんと伸びるハイウェイにのんびり車を走らせ、ヴィクトルはめくるめく風景に魅了されていた。いいね、これから滞在するトーヴィル・コーヴの新居に到着して、この海景の美を叙情詩にするのだと考えると、わくわくする。これこそスランプを解消する手だてとして、医師に助言されたことなのだ。

 ラウンダバウトに入ればトーヴィルの繁華街へは数分だ。繁華街、とここメインストリートを呼ぶのは気前がよすぎるかもしれない。木がリボンみたいに連なるマーケット・ストリートは海の先まで伸びるかのようで、通りに並ぶ建物はどれも古びて小さく、町の住人が大切に営んできたものとみえる。往来を抜ける途中、お土産とギフトございます、と案内のある本屋、公園の新緑にうずもれた小さな公共図書館、わずか3本の作品案内が入口ひさしの下に貼られた映画館の横を走り過ぎた。

 マーケット・ストリートのいっぽうはディーン・ストリートとぶつかって途切れるが、ダッシュボードに置いたスマートフォンと2枚の地図によると、入り江の半分をくるむように伸びていき灯台で終点を迎えるのだそうだ。そして入り江を望むあとの半分には、とんがり屋根をもつ古いマナーハウスへつづく海岸通りがあり、地図いわく、マナーハウスは現在『ゆーとぴあ・シーサイド・リゾート』に改装されたという。そしてディーン・ストリートのほうは、ほぼ休暇用のコテージとビーチハウスで占められている。ヴィクトルがこれから1年間借りる予定のコテージも、ここにある。

 当のコテージは難なく見つけられたものの、隣家とのプライバシーや静けさとはかけ離れた立地である。愛らしくこぢんまりとしたコテージは海辺に繁るセージの色でいろどられ、ドアには青い薔薇の花環の絵、窓の白いよろい戸は小さなハート柄で飾られていた。マッカチンはヴィクトルが車をコテージ前にまわして停めるあいだも興奮して吠え、主人に車から降ろしてもらうや一番乗りで門を抜け、ドアの前まで駆けていく。

「楽しみだね?」声をかけてやりながらヴィクトルはマッカチンの横に立ち、新居の鍵を開けた。

 荷解きをしてそれぞれの場所へおさめるのに、長くはかからなかった。ヴィクトルが持ち込んだ物のほとんどは、ここ一週間のうちにマンチェスターから船で送ってあった。古いアパートのいっさいを荷造りする必要はなかったし、もちろんコテージは家具付きだ、でも自分が暮らす家を住みよくととのえるこの日を、ずっと心待ちにしていたのだ。

 居心地よい、という言葉がぴったりのコテージだ。一階建てで、寝室とバスルームがひとつずつ、片隅には小さなキッチンがある。窓はいずれも白と青の田舎風のつくりながらとても大きく、できるかぎり光を取り込めるようになっていて、そうでなければこの小さなコテージを広々と風通しよく見せるのは無理だったろう。キッチン兼ダイニングにあるフレンチドアは裏のパティオに通じ、そこから小道をたどっていけば崖下の人目につきにくいビーチと水際まで、一直線に行ける。

 寝室はベッドサイズとくらべて狭いが、ペールブルーと白で品よく飾られた日除けが、ちょうど窓の外の入り江に群れる雲を思わせた。バスルームも同様で、そのほか鉤爪型の足がついた大きな陶製バスタブと、青色の碇がアクセントに描かれた陶製タイル、船乗りのシャツみたいなストライプ模様のふかふかしたタオルでそろえられ、こちらもパティオと海へつながるカーテン付きのフレンチドアがある。一日ビーチで過ごしたあと、あたたかい風呂にそのまま飛び込めるな、ヴィクトルはそう考えて笑みを浮かべた。

 最後の衣服をベッドルームにある小さなウォークイン・クローゼットへしまいながらヴィクトルは、俺はものすごく鮮明な夢を見ているわけじゃないんだぞ、と繰り返して気持ちをあらたにする。ようやくこの愛らしい静かな海辺のコテージに身を落ちつけて、自分の過ごす日々がまっすぐ目の前にしめされたように思った。時は過ぎ、それもきっと、自分が思うよりもずっと早く過ぎていくだろうが、今このときはスランプや締切りのことを気に病まない、次に執筆する小説がどうなるかなんて漠然とした不安ももたない。そう、生きるんだ。

 エージェントであるヤコフ・フェルツマンに宛ててメールを送り、トーヴィル無事到着の旨を伝えてから、ヴィクトルはマッカチンのリードをつかんだ。「行くぞ、マッカ、町を探検だ!」うきうきして声をかけた。

 意を得たマッカチンはぴょんと跳びはねて、ドアの外に待ちうける冒険をもとめて、そして食べ物に期待を寄せて、主人のあとを追った。

 


 

 

トーヴィル・コーヴ:観光のご案内

  トーヴィル・コーヴへようこそ! ブリテン諸島のうずもれし宝石、魅力的なこの海辺の町は峻厳な断崖、あまたのビーチに残る手つかずの自然、そして住民たちのおもてなしの心が自慢です! 人口5,387人と小さな町ですが、和気あいあいとしたトーヴィル・コーヴは観光でお越しの方、長くお住まいになるご予定の方、どちら様も歓迎いたします。

 

トーヴィル・コーヴのおもな名所

 トーヴィル・コーヴ桟橋 および 海岸通り

 絵葉書などで一度トーヴィル・コーヴをご覧になったことがあるなら、桟橋と海岸通りそして観覧車やメリーゴーランドをご存じのことでしょう。トーヴィル・コーヴ桟橋および海岸通りは、ご家族で一度にお楽しみいただけます。カーニヴァルのブースでひと目惚れした景品を手に入れるもよし、レトロなアイスクリーム・パーラーで町の名物のひとつ、ダブルファッジ・ワッフル・コーンを堪能するもよし! それぞれをお楽しみいただけるチケット、および一日パス券も販売しております。

 ゆーとぴあ シーサイド・リゾート&スパ

  由緒正しきトーヴィル家の所有であったマナーハウスが、このたび休息とリラクゼーションを追求した、モダンなリゾートに生まれ変わりました! 『ゆーとぴあ』施設内にあるビーチサイド・スパのデッキからは、海へも海岸通りへもお気軽に足を伸ばせます。ゆーとぴあには評判の和食レストランが併設され、日本料理の風雅と家庭料理のぬくもりを同時に味わえます。さらにペット同伴可、各種アメニティーも取りそろえております。ご予約については、以下のURLへ。

 yutopiaresort.co.uk

 

 クリスピーノ・ワイナリー

 お車で数キロメートル内陸へ向かっていただきますと、型にとらわれないワイン愛好家の嬉しい日帰り旅行にもぴったり、『クリスピーノ・ワイナリー』がございます。自然に囲まれた丘の上から、遠く広がる海岸の絶景を眺めながら、特製のワインやリキュール、ゼリーをお召し上がりいただけます。クリスピーノ・ワイナリーは町なかの喧噪とは無縁ですが、ご夕食の時間にじゅうぶん間に合うほどの近さです! もし直接のご来園が難しいようでしたら、町のレストランにてクリスピーノ・ワイナリー製フルーツワイン、受賞歴ももつトーヴィル・ミード酒をお試しあれ! さらなる情報は、以下のURLへ。

 chrispinowines.co.uk

 

 トーヴィル岬灯台

  トーヴィル岬にそびえる断崖の上には、ひとつの家族によって代々守られてきた灯台がございます。ここでは、町に多く残る不思議な怪談話を提供いたします。現在灯台守をつとめるニコライ・プリセツキー氏が、ときに夜のゴースト・ツアーへと、あなたをいざなうことでしょう。さあ勇気をふるって、どうぞ中へ……。

 

 ご家族そろってビーチでただのんびりとくつろぐ、地元の新鮮な料理に舌鼓をうつ、海での大胆な冒険に乗り出す、トーヴィル・コーヴの素敵な体験が、あなたをお待ちしております!

 


 

 

 海岸通りにあるアイスクリーム・パーラーは件の観光案内のお墨つきをえた店で、なかは洒落たレトロ調、チェックボードみたいに敷かれたタイルの床と、クロムめっきを施したしつらえである。ティーンの少年がカウンターにいたものの、どことなく場違いなふうに見えた。ぱりっと洗濯されアイロンもかけられたピンクと白の制服を着て、金髪を頭のうしろでまとめてはいるが、少年はなにやら攻撃的であまのじゃくめいた気質をブルーグリーンの瞳にたたえ、ヴィクトルがメニューを眺めるあいだ、じっとこちらを睨んでいた。

「言っとくけどな、ダブルファッジ・ワッフル・コーンを注文するのに、だらだら時間をかけることはねえんだぞ」しばしののち、小僧はゆっくり音を伸ばして、のたまった。少年の制服に「ユーリ・プリセツキー」と書かれた名札がついているのに、ヴィクトルは気づく。

 ヴィクトルは顔をしかめた。「なんで俺がファッジを頼むと思ったのかな?」と問いかける。「コーンじゃあ、うちの犬と一緒に食べられないだろ」つけくわえて、パーラーの外で待つマッカチンにうなずいてみせた。外のベンチにつながれたマッカチンは、雲間からほんの一瞬顔を出した真昼の陽だまりで、ハッハッと浅く呼吸している。

 ユーリ・プリセツキーが鼻にしわを寄せた。「お前、アイスクリームを犬と分けあって食うつもりか?」と、念を押す。

 まあ、たいていの場合ヴィクトルは、自分がコーンの大半を食べた残りをマッカチンにやっているのだが、小僧の顔つきがあまりにも可笑しかったので、ちょっとからかってやろうと思ったのだ。「犬の口のなかはね、人間のよりずっと清潔なんだぞ、教えてやろうか」甘ったるい声で言ってやった。

 小僧はやたら大げさに息を吐いた。「いいかよく聞け、てめえのコーンはてめえで買えよ。犬のコーンぐらい、ただでくれてやる」ぴしゃりと言うのだった。

「ああ、君は優しいなあ!」にんまり笑って返すヴィクトル。

「礼なんか聞きたくねえ。お前の胸くそ悪い習慣なんざ、今日かぎりでやめさせてやる」

 ヴィクトルは自分用にストロベリー、マッカチンにはバニラのアイスクリームを注文した。フレーバーの注文を口にしたとき、ユーリの表情が少しだけ和らいだように見えたが、ヴィクトルは何も言わずにおいた。

 マッカチンに犬用コーンを持っていってやると、ヴィクトルもベンチに腰をおろして、ふたりきりの静かな幸せを味わった。頭上では、カモメが鳴き交わしながら波間をぬって飛んでいき、海はこまやかなカットをあしらった宝石のように、海岸通りに並ぶ木組みの柵の向こうできらめいている。観光シーズンはまだ先だが、カップルや家族連れらしき人々がいくらか、往来を行ったり来たり。犬を連れた者もいて、彼らがそばを通るたびに、マッカチンは鼻をくんくん鳴らした。

 マッカチンがコーンをたいらげると、ヴィクトルはベンチからリードを解いて、ともに海岸通りを桟橋へ向かって歩いていった。メリーゴーランドから流れるカーニヴァルの音楽があたりに満ち、乗っている子供たちの歓喜の叫びもくわわる。マッカチンを観覧車に乗せてやろうかとヴィクトルは思ったが、犬は駄目だと断られるかもしれないな、と考えなおした。

 休日を過ごす家族やデートに繰り出す若者たちのいっぽうで、桟橋は釣果をもとめてやってきた釣り人らの拠点になっていた。桟橋の終点で老いた男が釣り糸を投げるのを眺め、ヴィクトルは青い海と空の境界を見さだめるように、柵の手すりに寄りかかった。

 突然マッカチンが吠えたので、ヴィクトルはかたわらの犬を見おろして、次いで手近なブイのほうへ目をやった。犬の視線を追っていくと、アザラシが1匹、波間から件のブイの上に跳びのって、昼さがりの太陽のもと、ころんと腹をさらすのが見えた。

「ママ、ママ、カツドンが戻ってきた!」

 声のしたほうを振り返ると、見た目がそっくりな少女が3人、それぞれピンク、ブルー、パープルのサマードレスをまとい、歓声をあげていた。パープルの服を着た娘がクリップボードを抱えれば、その間ピンクの娘は見せつけるように双眼鏡をつかみ、ブルーのほうはブイに向けてカメラを構える。

「へえ、もう?」娘たちの母親とおぼしき女性が ―― 誰それのママ、というにはあまりにも若く見えるのだが ―― 言葉をかけた。「カツドンから、なにか新しいことがわかりそう?」

「聞きに行けばいいんだよ!」ピンクが叫ぶ。

「あとにしなさい」母親がたしなめた。3人娘はそろって不満の声を漏らしたが、マッカチンに気づくと目に見えて活気づいた。

「その犬、とってもかわいいね」パープルを着た娘が言った。

「ありがとう」ヴィクトルは応じた。「この子はマッカチンっていうんだよ」

「さわってもいい?」とブルーの娘。

 ヴィクトルがうなずくと、少女たちはプードルを思う存分撫でまわし、きゃあきゃあと褒めそやした。注目を集めたマッカチンがきりりと元気になったのは目にもあきらかで、ヴィクトルはいささか裏切られたような気分になった ―― マッカチンときたら女の子に囲まれて、まるでこんなふうに撫でてもらうのは生まれてはじめて、みたいな態度じゃないか。

「ほら、もういいでしょ」少ししてから、女性が声をかけた。そしてヴィクトルに笑顔をみせる。「撫でさせてくれて、ありがとうございます」

「マッカチンは甘えん坊だからね。この子は全然気にしてないよ」ヴィクトルも言って、にっこり笑った。アザラシのほうを眺めて、ひとつうなずいた。「あのアザラシは、よくここに来るの? 名前があるようだけど」

 女性は笑った。「そう、カツドンはここ、トーヴィル・コーヴに棲みついてるの! あの子はもう何年もここにいるの。わたしが知るかぎり、仲間や家族があの子をここへ迎えに来たことはないもの」

「何事も彼の思うままに、か」ヴィクトルが見つめるなか、日光浴の体勢から身を起こしたアザラシは、波しぶきをあげてブイから海中へと姿を消した。「ひとりぼっちなんだな」

「うん、そうかもしれない」女性は微笑んで、そして手を差し出した。「西郡優子です。トーヴィル・コーヴの海洋観察をしているの。この子たちは娘の、アクセル、ルッツ、そしてループ」

「ヴィクトル・ニキフォロフだよ」握手を交わしたヴィクトルは興味をおぼえ、訊ねてみた。「その子たちの名前は、フィギュアスケートのジャンプからとった?」

「そうなの、ずっとフィギュアのファンで」女性の頬に、淡くピンク色が散らされた。「ところで、あなたのお名前は知ってます。『王様とスケーター』はもう数えきれないくらい読み返しました」

 くすりとヴィクトルは笑った。「映画は観た、って言ってくれる人のほうが多いけどね」と打ち明ける。

「原作のほうがずっといいですよ」言いつのる優子に、ヴィクトルはできるかぎり丁寧に、微笑んだ。

「気に入ってくれたなら、俺も嬉しいな」と答える。ファンに対しては、いつもこうしてきた。最新作『王様とスケーター』は近年映画化された。発売当初、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・ランキングで3週連続で首位を獲得したし、昨年は『オプラ・ウィンフリーのブッククラブ』でも取りあげられた。その前だって、発表してきた小説がベストセラー入りを果たすたびに、「時代を超越する驚くべき型を生み出した」「心奪われるプロットが、輝く火花のような文章のうちに織り込まれている」とかいった賛辞を山ほどヴィクトルにもたらしていた。

 だがどんなに卓越した筆力をもってしても、壁にぶちあたる多くの場合は「もしも」ぶつかったら、ではなく「いつ」ぶつかるか、なのだ。今ヴィクトルが直面しているスランプは、まさにそんな感じだった。

 ヴィクトルは見おろした。小さな女の子たちは一心に、クリップボードに書きつけている。彼は優子のほうへ、ひょいと眉をあげてみせた。「この子たちがつけているのは、潮の記録?」

 優子はうなずく。「トーヴィル・コーヴ海洋観察グループはね、ビジター・センターに潮の満ち干きとか、波の高さの情報を提供してるの」と答える。「わたし自身は、海に住む生き物たちのほうがずっと好きなんだけどね」

 ヴィクトルの笑みが、さっきよりも偽りのないものになった。「あの、アザラシみたいな?」と訊いた。

 ええ、と優子。「そのとおり」そうして少し言葉を切ったが、ぱっと顔を輝かせる。「ここを訪ねてきたのは、トーヴィルのことを書くためですか?」問いかけは、まごうかたなくヴィクトルの回答を期待している。「ここはね、怖くて不思議な話がいっぱい残ってるの。少しだけならお話しできますよ、ご興味があれば」

 ヴィクトルはくすくす笑った。「それはまあ、またの機会に」と言った。「興味がないわけじゃないんだよ、もちろん。俺自身も何を書くことにするか、まだはっきりしてないんだ」

 意を得て、優子はにっこりした。「ええ、インスピレーションが湧いたら、ぜひ教えてくださいね! 知りたいことがあったら、喜んで協力するから。もし本気でこの町の歴史を知りたくなったら、灯台守のプリセツキーさんに会うのがいいですよ」

 あのアイスクリーム・パーラーの男の子の係累だな、とヴィクトルは笑顔とともに考えた。素晴らしきかな、小さな世界。

 きらめき放つ外海では、あのアザラシが、どこかわくわくしたふうに波間に浮かんでいた。

 


 

 

 王様とスケーター

 ヴィクトル・ニキフォロフ著

 340ページ オーラム・ブックス

 

 ヴィクトル・ニキフォロフの手による一連の見事なベストセラー群の中でも、傑出の最新作『王様とスケーター』は優れた技で編み出された、フィギュアスケートと悲しきロマンスの物語だ。ニキフォロフの代名詞でもある緻密にして情感あふれる文章が、「目にするすべてが驚異的で、あり得べからざる」奇想の王国、マンダーラへの時空を超えた旅に読者をいざなう。

 物語では、主人公であるイギリスのフィギュアスケーター、アーサー・スチュアートがグランプリファイナルのソチ大会で惨敗したのち、スケートへの愛を取り戻すため奮闘する。たゆまぬ努力にもかかわらず「(スチュアートは)氷上を滑るあいだ、わずかな喜びも見いだせなかった …… ランキング最下位に沈んだ瞬間、彼のなかのかけがえのないものが、かたく閉ざされてしまったかのようなのだ」。だが、主人公お気に入りのトレーディングカードゲームが秘める奇妙な宇宙的不条理によってすべてが変わり、スチュアートはマンダーラ王国へと放り込まれてしまうのだ ―― 件のカードゲームの魔力を手にしたまま。

 この手の大掛かりな幕開けのストーリーは、ままある作家の手にかかれば陳腐になり下がるものである。だがニキフォロフはこれまでも、パイ作りに没頭するアイスホッケー選手(『チェリー・フリップ』)、スピードスケートに戦いの場を見いだした水泳少女(『ブレードに愛をのせ』)といった魅力的な物語を我々に届けてきた。このたびも比類なき熟練の筆致をもって、奇抜な論理と比喩の多用からなる美しき語りを築きあげた。神経質にしてせっかちな英国人スチュアートと、陰鬱で謎めいたマンダーラ国王サクチャイの繊細な関係が実を結んでゆく過程は、『王様とスケーター』のような小説ジャンルにありがちなカビ臭い美的表現と同じ轍を踏むことはない。物語の山場、マンダーラの宮廷に政変が起きたとき、スチュアートはマンダーラの歴史を永遠に変えてしまう力を前にして、己の選択を迫られる。

 映画化が決定した『王様とスケーター』は、来年のバレンタインデーに公開を予定しているが、公開にあわせてぜひ御一読いただくことを強くおすすめする。読書の時間を充実させてくれること、うけあいだ。

   ―― ヒサシ・モロオカ

 


 

 

 午後も遅く、ヴィクトルは食べさしのカプレーゼサラダの器がのった長い木製キッチンテーブルで、ノートパソコンを前にすわっていた。パティオへつづくドアは、外の涼やかな風を入れるため開け放ってある。マッカチンがドアのすぐこちら側に寝そべって、午後の陽光のなか日なたぼっこをしている。

 ヴィクトルはもうずっと、いっこうに進まないパソコンの空白ページ画面とにらめっこしていた。こう見えても、思考は目の前の仕事に取り組んでいるところなのだ。光は窓やガラス戸をとおして部屋に満ち、太陽は空を黄金色に輝き染めて、まったく気がそぞろになってしまう。コテージの外へ下りていって海岸を散歩でもすれば、頭がまた回転してくるかもしれないなと考える。

 夕暮れどきになってヴィクトルは暖かく着込み、マッカチンへ口笛を吹くと、また一緒に出かけた。今度は、板がぐらついて歩くのも難儀な階段をてくてくと、岩壁の下におさまるちいさな浜まで下りていった。

 その浜は断崖にしっかり守られ、満ちる潮が砂をほとんど運び去ってしまうために、ごつごつした地面があらわになっていた。潮がひいた今は岩場に潮だまりが出現し、貝殻だらけの湿った砂が一面に広がっている。それでもマッカチンは波のほうへ駆けていき、寄せる波を足先でぱしゃりと跳ね散らしては、あとずさる潮を追いかけていく。

 ヴィクトルは風が髪を撫でるにまかせ、波のみぎわを見渡した。海岸通り、桟橋、そして海辺のリゾートに灯がともり、金色のちいさな光が瞬きながら入り江を横切っていく。

 急にマッカチンが吠え、ヴィクトルはすぐそこの波間にいる見おぼえある姿へと注意をうつした。そいつはアザラシで、なめらかな黒い頭が好奇心に満ちみちて、数フィート先の波のあいだで上下にゆらゆら揺れている。

「マッカチン、駄目だ!」ヴィクトルは叫んだが、マッカチンはもう白いしぶきを蹴立てて飛び込んで、まっしぐらにアザラシを追いかけていく。けれども海獣は逃れたりしなかった。アザラシは水中へ姿を消し、プードルのすぐうしろにふたたび顔を出した。そしてマッカチンが向きを変えてアザラシを捕まえようとすると、消えて、また現れる。

 それが4回つづいたところで、あのアザラシはからかっているんだな、とヴィクトルは察した。

 どきどきして見守るなか、しばしマッカチンと戯れたアザラシは、困ってしまったプードルに近づいていくとそのまわりを励ますようにぐるぐる泳ぎまわる。マッカチンはアザラシとつかず離れずの距離をたもつうちに混乱がおさまって、遊ぶ気分になったらしい。2匹はぱちゃぱちゃ水を叩きあい、アザラシのほうが軽やかに泳いでいながらも、マッカチンに疲れた様子はない。まるでアザラシがマッカチンを老犬だとちゃんと理解していて、傷つけるつもりはないのだというふうに。

 つつきあって、じゃれあって、アザラシはマッカチンを浜へみちびいて、自身も波打ち際へあがった。陸の上ではそれほど優美でないアザラシだが、自分のまわりをぐるぐる駆けるマッカチンに応じてやるのだった。アザラシがマッカチンのあとについてどたどた進み、追いかけっこしながらそろって楽しそうに喉を鳴らせば、ヴィクトルも思わず声をあげて笑ってしまう。

 やがて遊び疲れたマッカチンは、アザラシに寄りそってごろんと横になる。すでに太陽は水平線の彼方に沈み、空は濃紫と藍の色に染まっていた。潮がゆっくりと戻ってきて、アザラシとプードルの寝そべる砂をあらいはじめた頃、ヴィクトルはマッカチンを呼ぼうと近づいていった。

 アザラシと対峙したとき、まじりけのない石炭みたいな真っ黒な毛皮と、名状しがたい知性をたたえた目をもつこの生き物に、ヴィクトルは不思議と惹きつけられた。しかしこちらが手を伸ばし触れようとすると、アザラシはさっと逃れて水のなかへ滑り込んでしまった。アザラシの頭が波間に消えるのを見て、ヴィクトルは長くぽっかり心にあいていた奇妙な空虚に、今ようやく気づいたような思いがした。

 わふ、ととがめるようにマッカチンが吠えたので、ヴィクトルは笑って犬の耳のうしろを掻いてやった。

「ごめんね、おまえの新しい友達を追い払っちゃって」そう言って、崖上につづく階段のほうへ歩き出す。「帰ろう、マッカ」

 マッカチンも同意に吠えて、仔犬に戻ったみたいに元気に主人を追いかけて、ぴょんぴょん階段を跳ねていった。

 


 

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新しい、楽しい我が家だ!http://bit.ly/2hxxIgs #torvillcove

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マッカは海が大好き!http://bit.ly/2hAoO3i #torvillcove

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綺麗な夕日!http://bit.ly/2hS8cAf #torvillcove #torvillcovepier

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このためになら早起きできる。http://bit.ly/2hDjNa8 #torvillcove

 


 

 

 執筆とは習慣だ、特に、対価が支払われるのなら習慣であるべきだ。よく物書きがルーティンとしていることで、書くよりほかない時間をあらかじめ一日のなかから確保しておく、というものがある。何かにつけ、すべてにつけ。紡ぐ言葉が浮かんできたならば、それは熟慮された末の成果といっていいのだ。

 ヴィクトルはここトーヴィル・コーヴでのはじめの一週間で、これまで守ってきた習慣をすべて破ることにした。そして今朝は、以前暮らしていたマンチェスターのときのように書斎に缶詰めにならず、代わりにマッカチンとジョギングがてら、コテージの裏手からつづく町への小道を下っていった。

 まだ早朝で、太陽はようやく空を昇ってきたばかり。漁師たちが網を手に、入り江から海へ出てゆく。ボートの一艘に優子と娘たちが乗っているようにヴィクトルは思った。手を振ってみたが、岸から遠く離れていて向こうは気づかなかったようだ。

 走った帰り道、ヴィクトルは食料を調達することにした。町の食料品店『ネコラのマーケット』は郵便局と本屋がある通りの裏手に、貼りつくように建っていた。うまいこと掲げた看板がなかったら、ヴィクトルもあやうく見落とすところだ。

 ストア・マネージャーのエミル・ネコラという男にレジで商品を通してもらったところで、背後からヴィクトルの名を呼ぶ声がした。「ねえ、ヴィクトル! 何か手伝うことはある?」

 見おぼえのないその若者がなぜヴィクトルの名を知っているのかわからなかったし、まったく面識がないのもたしかだが、彼の笑顔は日に焼けたような顔立ちぴったりにあたたかく、ヴィクトルが買い込んだ品を持ち帰るのを手伝う、と申し出てくれた。したがってヴィクトルも笑顔でうなずいて、若者は品物を詰める木箱を持ってくる。

「ごめん、前に会ったかな?」若者が箱を抱えてそろそろ動いているところへ、訊ねてみた。「あと、うちの犬を店の前で待たせてて ―― 」

「郵便局の前で会ったよ!」星が瞬くみたいな目で若者は答える。「それと、僕の名前はピチット。実をいうとね、ヴィクトルのことはインスタグラムで知ったんだ」

 ああ。なるほどこれで説明がつく。このごろヴィクトルはずっとインスタグラムに時間を費やしていたが、これもおおかた物事を先送りしてしまう無駄なあがきみたいなものである。アップした画像には自分とマッカチンが海岸通りや桟橋で写したものがいくつかあるし、『#torvillcove』とタグまで付けていた。漠然とではあっても、自分がここにいることは皆ちゃんと気づいている。

「それにね、僕は『王様とスケーター』の大ファンなんだ! ミッドナイト・プレミアム上映を観たくて友達と一緒に大きな街まで行ったこともあるんだよ。ここで上映されるまで待ってたら、それこそ永遠に待つはめになっちゃう。わざわざ行くだけの価値はあったね! でもやっぱり原作のほうがいいと思うな」

 ヴィクトルは笑った。またファンか。「俺が書いたものを気に入ってくれたなら、嬉しいよ」と、言った。

 にっとピチットは笑う。「荷物を自転車に積んじゃったらさ、一緒に写真撮ってもいい?」

 撮り終えて、ヴィクトルは髪を揺らす風を満喫しながら、マッカチンと一緒にピチットのあとについてマーケット・ストリートと海辺のコテージが並ぶディーン・ストリートとの交差点へ向かった。リードを垂らしてひと懐っこくピチットの自転車を追うマッカチンは、朝の光のなか舌がぺろりとはみ出ている。

「で、ここへは何をしに?」桟橋のたもとを過ぎ、崖を背にしたコテージ群へとのぼる道に入ったところで、ピチットが愛想よく訊いてきた。子供らが数人ビーチクルーザー乗り場へ行きかかり、ピチットとヴィクトルはいったん停まって彼らを先に通してやる。「題材探し? 『王様とスケーター』を書いたときは、フィギュアスケートの動作の基礎を習ったって聞いたけど」

 ヴィクトルは笑いをこらえる。「あれはリサーチのうちでも氷山の一角にすぎないよ」と言った。「だけど、違うな。今回ここへ来たのは、執筆環境を変えたかったからなんだ」

「でも、今も何か書いてるんでしょ?」ピチットの眼差しは明るい。

 ヴィクトルは、日に2度はかかってきているヤコフからの電話のことを考えた。「俺のエージェントは、そうして欲しがってるね」と、みとめる。

「わあ! ここは小説にするだけの価値があるよ! 小さな町だけど、いろいろ関わってれば、いつでも何かが起きてる町なんだからさ? それに心配ご無用 ―― トーヴィルには夏の別荘を持ってる人がたくさんいてね、夏がきてみんなが戻ってくれば、あちこちでパーティー三昧だよ! ここにいれば必ずインスピレーションを得られる運命にあるってわけ。保証するよ」

 ヴィクトルは微笑んだ。「覚えておくよ」と、答えた。

 


 

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Viktor Nikiforov @v-nikiforov

マッカの新しい友達が、また来てくれたよ! http://bit.ly/2iKrUlk #katsudontheseal #torvillcove

 


 

 

 到着して一週間かそこら経ったある朝、半ばプライベートな場所となっていた小さな浜へヴィクトルが下りていくと、いっぷう変わった金髪の男がひとり、砂の上に腹ばいになって、潮だまりへちょこちょこ走っていくカニに高価そうなカメラを構えていた。

 男が身を起こそうとしたときヴィクトルが咳をひとつしたものだから、相手はぎょっとしてこちらを向いた。男はヴィクトルも驚いたことにかなりのハンサムで、瞳はハシバミ色、あごには薄くひげがあった。

「失礼、君のビーチにお邪魔しちゃったかな?」見知らぬ男は訊ねると、ひょいと眉をあげ、手を差し出した。考えようでは、その軽妙な問いかけには意味深な響きがある。

 ヴィクトルは差し出された手をとり微笑んだ。「いいや」握手を返しつつ答える。「実際ここは個人のものじゃないから、いつでも歓迎だよ。ただこれまで、ほかの人をここであまり見たことがなかったから」

「あの階段じゃ家族連れも敬遠するだろうしね」と、金髪の男。「ところで、俺はクリストフ・ジャコメッティ。この町の住人だよ。『ここに住んで3年目』を地元民と呼ぶならね」

「まあ、俺よりはこの土地に詳しいよ。こっちはまだここへ来て一週間だから」と、ヴィクトル。「ヴィクトル・ニキフォロフだ」

「ああ、君がこの前の冬に、海岸通りの期間限定スケートリンクで話題をさらった原因の人だね」クリストフは言った。遠まわしに『氷奏3部作』のうち少なくとも1冊は読んでいることをほのめかしたわけだが、ヴィクトルは彼の独特の言いまわしのほうに、へえ、と思った。

「いいカメラだね」ヴィクトルはそう言って話題を変えた。

 クリストフは笑い、とんとカメラをやさしく叩く。「ああ、俺はこの娘を自分の命よりも大事に思ってるよ」一語一語、芝居がかった溜め息まで交えてみせる。その様子がヴィクトルには印象的だった。「とはいえ、俺はその道のプロじゃないんだ」そうつづけて、クリストフは肩をすくめた。「プロフェッショナルへの道に踏み出すには、これまでのキャリアにうちの猫の写真ばかりが多くてね」

 ヴィクトルはくすくす笑い、自分のスマートフォンを取り出すと、ロック画面を見せた。最近、マッカチンの画像から、マッカチンとアザラシが写る画像に替えたところで、渚で2匹がそっと鼻を触れあわせているものだ。「プロを目指すのにペットの写真を持ってちゃいけないっていう奴がいたら、俺なら喜んでこの先一生アマチュア作家として過ごすさ」

 ヴィクトルの言葉にクリストフの笑みが大きくなり、しゃんと背筋が伸びた。「じゃあ今度、俺のところの暗室を覗いてみるかい」と訊ねてきた。

「まあ、そりゃ大胆きわまるお誘いだね」ヴィクトルはぱちぱち無邪気に瞬いてみせる。「暗い部屋にお招きいただくならまず、お酒と食事でアプローチくらいはしてもらってからでなきゃ」

 それを聞いたクリストフが吹き出した。「ああ、いい友人になれそうだね、俺たち」言明してから、自分のスマートフォンを取り出した。「動物の写真がっていうなら、俺のこの猫の画像も …… 」

 しばらく浜辺で互いの画像(と、連絡先)をやり取りしたのち、クリストフは腕時計に目を落とした。「そろそろ仕事に行かないと」溜め息ひとつ、言った。

「どこで働いてるんだい」と、ヴィクトル。

「『花中』っていうスナック・バーだよ。海岸通りの、射的場の真向かいにある。ランチタイムには酒よりもスナックが、夜にはスナックより酒のほうが充実してる店さ」クリストフはちょっと笑って、襟首に手をやった。「ぜひ来なよ。湾の絶景も見られるし、ときどきなら俺もフリードリンクを提供するし」

「いいね」と、ヴィクトル。「フリードリンクは大好きだよ」

「じゃあ、最終的にはうちの暗室を見てもらうってことで」クリストフは言いながら、目をきらきらさせていた。

 ヴィクトルは笑って応じた。「ああ、近いうちに」

 


 

 

 トーヴィル・コーヴ通信から、最新のニュースをお届け

 

 ……ルロワ家がこの夏、トーヴィル・コーヴへ帰省する予定。到着する今週土曜日、ボウヒル・レーンのルロワ邸を皮切りに、引っ越しパーティーのシーズンが幕を開ける模様です。来る者拒まず、ドレスコードはセミ・フォーマルで。

 

 アザラシあらわる

  トーヴィル・コーヴにすむアザラシが、ふたたび湾にて目撃されました! アザラシは以前、浜辺で西郡家の3つ子ちゃんたちが『ゆーとぴあリゾート・レストラン』のトンカツで餌付けしようとしたことから「カツドン」の愛称をもらっていましたが、この観光シーズンにトーヴィル・コーヴへ戻ってきました。地元の保存会であるトーヴィル・コーヴ海洋観察グループに所属する西郡優子さんは、カツドンは遠洋での長旅を終えて戻ってきて、次の出発までの間このトーヴィルで休息をとるのだろう、と語っています。スマートフォンのご用意を! 一度カツドンのひと休みする姿を見かけたなら、次のチャンスがいつ巡ってくるかはわかりませんよ!

 

 ベストセラー作家 トーヴィル・コーヴを来訪

『王様とスケーター』ファンの皆さんに朗報! 著者ヴィクトル・ニキフォロフ氏がトーヴィル・コーヴを訪れており、氏のインスタグラムの投稿画像によるならば、現在も滞在中です。『王様とスケーター』『チェリー・フリップ』『ブレードに愛をのせ』など、いわゆる『氷奏3部作』で広く知られるニキフォロフ氏は、この町を訪れた理由について「インスピレーションを得るためと、執筆環境を変えるため」と語っています。氏の次回作に、トーヴィル・コーヴがフィーチャーされることを願って!

 

 春に吹きすさぶ恋の嵐

  町の可愛いあの娘たち、ミラ・バビチェヴァ嬢とサーラ・クリスピーノ嬢が先週の水曜日、クリスピーノ家所有の車中でキスを交わす姿が目撃され……

 


 

 

『ヴィーチャ、頼む。途中までだろうが構わんから、仕事が実際どこまで進んどるのか教えてくれ』

 苛立ちを抑え込んだご機嫌とりの声で、ヤコフが言った。ちょうどマッカチンを連れて海岸通りを散歩中だったヴィクトルはつい、笑いだす。

「毎日だって書いてるよ、ヤコフ」元気よく答える。「この町は素晴らしいね! 海岸通りを毎朝歩くだけで、出会った人たちについて次々詩が浮かぶんだ」

 トーヴィル・コーヴ到着から数週間が過ぎていたが、ヴィクトルはもう、この町以外の場所で暮らしたことなどなかったみたいな気分になっていた。そのあいだ町の住人たちの名前も少しずつ頭に入ってきて、以前からヴィクトルの名を知っていたらしい彼らも、店に入ったり、通りを歩いたりするたびに、こちらを驚かせてくれるのだった。

 ヤコフのあきれ顔がヴィクトルの目に浮かぶようだ。『詩はいいとして、だ。約束していた小説の原稿はどうした?』エージェントは要求した。

「リサーチをしてるんだよ!」ヴィクトルは反論し、空を仰いだ。「町の人たちから話を聞かせてもらってるんだ、ほら、古い言い伝えとかさ。この町の灯台には少なくともゴーストが3人出るんだよ、知ってた? アイスクリーム・パーラーの男の子が昨日、俺がマッカチンとアイスを買いに行ったときに教えてくれてね ―― ここのアイスクリームは本当に美味しいよ、ヤコフもぜひ一度ここに来て ―― 」

『なぜわしは、長らくお前にかじりついて進捗チェックなぞしてきたんだろうな』ヤコフが唸った。

「原稿はちゃんと書くよ、いいだろ?」ヴィクトルはちょうど桟橋のたもとで足を止めた。マッカチンが、こちらのそばまで飛んでくるカモメに向かって吠えたてる。

『それならいい』とヤコフ。『出版社はな、次に店頭に並ぶお前の本がどんなものなのか、死ぬほど知りたがっとるぞ』

 マッカチンとともに桟橋へ足を踏み出しながら、ヴィクトルは話題を変えた。「ねえヤコフ、この町でも新聞を発行してるんだって知ってた?」明るく訊ねる。「町のゴシップが全部その新聞に載るんだけどさ、ときどきすごく好奇心をそそられるものもあってね。先週号では俺を歓迎してくれるっていう記事のために、紙面を割いてくれたんだよ! あと面白かったのが、ここの映画館で働いてる女の子が恋人岬で、地元でワイナリーをやってる別の女の子と ―― 」

『それがいったい、お前の仕事とどう関係があるんだ?』ヤコフが無下にさえぎった。

「ああヤコフ、汝の信心のうすきことよ!」いささか悲劇っぽくヴィクトルは言い返す。彼は年月を経た木の柵にもたれかかり、青くきらめく海のはるかを見渡した。「俺がとにかく書くことに没頭するたちだって、知ってるだろ」

『なら何について書きたいのかだけでも、たしかめていいか? その町に関する内容と考えていいんだな、お前がそこを心から楽しんでいるなら』

 うーん、とヴィクトル。向こうの波の上に、あの見知ったアザラシが、白いしぶきをあげて黒い頭をぴょこんと出すのが見えた。

「ヤコフ、構成が決まったら、まず一番に教えるからね」そう言って彼は通話を切った。わん、と隣で吠えるマッカチンも同じくアザラシを見つけたようだ。それに応えるようにアザラシがそばまで泳いできたので、桟橋に居合わせた人々にどよめきが広がる。

 ここ数週間で、マッカチンとアザラシは離れがたいほど仲良しになっていた。マッカチンが浜辺にいるときも、アザラシは波間から現れて砂の上で一緒に遊んでは、のんびりと水のなかへ誘ってくる。ときにはヴィクトルも2匹について海に入ることもあったが、たいていは浜に残って眺めるだけで満足していた。はっきりとわからなくても、アザラシがマッカチンを危険にさらすことは決してないと、ヴィクトルは信じていた。信じられるかどうかわからないところまでくると、アザラシはちゃんと犬が元気なうちに、陸へ引き返させるのだった。

 アザラシは桟橋に沿ってヴィクトルとマッカチンの脇を泳ぎながらついてきて、マッカチンとそろって鳴き交わす姿はまるで会話をしているみたいだ。マッカチンが何を考えているのか知りたいと思ったのは、なにもヴィクトルにとって今が初めてではない。でもきっと、これが最後ということもないんだろうな。

 桟橋の終点までくると、アザラシはいっとき海にもぐるとふたたび現れて、空中へ見事に跳びあがった。もう一度、さらにもう一度、跳ぶ。マッカチンのほうは桟橋の柵のあいだから頭を突き出して、アザラシを応援するように吠えた。人々がスマートフォンを引っ張り出して構える。この様子じゃ、インターネットに画像や動画が拡散されるのは時間の問題かもしれないな、とヴィクトルは不安になった。

 ヴィクトルと同じことを思ったのかどうか、アザラシは今一度ジャンプをきめると、波のあいだに姿を消した。そのあともう現れなくなったので、くうん、とマッカチンが哀れっぽく鳴いた。アザラシはもう、しばらくは姿を見せてくれないかもしれない。

 ヴィクトルは振り向いて、撮影していた人の群れを睨むが、彼らはもう散りぢりに立ち去っていた。

 その後3時間とたたずアップされたインスタグラム投稿では、ピチット・チュラノンの手による動画 ―― そりゃもちろん、ああいう場にはピチットがいて当然なわけで、この若者は完璧なインスタグラムのチャンスをつかむためなら、神にだって挑むに違いない ―― マッカチンとアザラシの「会話」する姿が、数百万を超える視聴回数を叩き出していた。帰宅するなりそれを見つけたものだから、アザラシのなめらかな黒い体が水上を舞い、その向こうで尾を振って嬉しそうに吠えるマッカチンの映像を前に、ヴィクトルは仰天するのだった。

 


 

 

 アザラシと犬、ふたりは親友

 …… 私たちの心まで、癒されますね。

 カロリーン・ベネット

 BuzzFeed

 

 インスタグラムユーザー pitchit+chu の投稿動画に映っている、このプードル ―― 名前はマッカチン、ベストセラー作家ヴィクトル・ニキフォロフ氏の愛犬です ―― が、トーヴィル・コーヴの桟橋でアザラシに向かって吠えています。注目すべきは、アザラシが呼びかけに応えてくれたことです。

 アザラシが水面からジャンプしました。

 何度も。

 実現させたのはマッカチンです。とても可愛いですね。

 地元の保存会であるトーヴィル・コーヴ海洋観察グループによると、アザラシはカツドンという名前で23才オスのゼニガタアザラシ、魚を獲りに遠出する以外はずっとここ、トーヴィル・コーヴで暮らしているとのことです。名前をもらったからには、食べ物を探しにここから遠く離れなくとも大丈夫のようですね!

 もちろんトーヴィル・コーヴ海洋観察グループは、アザラシにトンカツを与えることをおすすめしていません。たとえアザラシたちが、そのためにジャンプをきめてくれたとしてもですよ。

 カツドンとマッカチンは #いちばんの友だち!

 


 

 

 アザラシはその後数日、姿を見せなかった。

 


 

 

 トーヴィル・コーヴ桟橋 についてのレビュー

 

「僕たちはアザラシのカツドンの動画を見て、トーヴィル・コーヴを訪れました。だから滞在中、カツドンを見られなかったのは残念! でも町はそんな気分を補うくらい魅力的で、桟橋があるよその場所より観光スポットが少なくても、とても楽しめました。こんなに小さな町だけど予想外! 町の人たちはとても気さくで優しくて、僕たちの旅を素晴らしいものにしてくれました」

   ―― ジェームズ・ロチェスター ブライトン イギリス 評価 ★★★★1/2

 

「ジャンプするアザラシを期待してたんだけどなあ。あのアザラシはどこに行っちゃったんだろう。町はかわいい感じだったけど、退屈だった」

   ―― ケイト・ハミルトン ヤーモス イギリス 評価 ★★

 

「もしアザラシを期待しているなら、がっかりするかもしれない。きっとカツドンは、インターネット動画で自分が有名になったものだから、恥ずかしがって出てこないのかも。でも町の人たちは皆フレンドリーだし、それにもしヴィクトル・ニキフォロフの小説のファンなら、ヴィクトルが動画に映ってたあの愛犬と朝の桟橋を散歩する姿も見られるよ! だから町に行ってカツドンに会えなくても、町の人たちにからかわれた、なんて思わないでね。この町には他にもいいところがいっぱいある。自分はそこに住んだことはないけど、これだけは確実」

   ―― アリー・K ロンドン イギリス 評価 ★★★★★

 


 

 

 いったいなんだって自分はアザラシなぞを恋しがってるんだろうな、とヴィクトルは考える。しかし残念な思いが体にずっしりおりてくるのはきまって、ふと青い外海へ目を凝らしてみても、波間に揺れるなじみある黒い頭を見つけられないときだった。

 ピチットの動画に頼らずとも、トーヴィルの観光シーズンははやばやと訪れた。ヴィクトルの姿が観光客にみとめられていようと、たった数週間やそこら暮らしただけの彼が町の感想を求められようと、同じことである。それでもヴィクトルはできるかぎりファンに応えてやったし、彼らの写真や自撮りにはポーズをとり、本を差し出されればいくらかサインもしたためた。サインと撮影のことでヤコフに管理を頼んでいない点さえのぞけば、マンチェスターやハートフォードにいた頃とたいして違いはない。

 ヴィクトルはある木曜の午後、海岸通りのにぎわいをそれとなく避けて、マーケット・ストリートの本屋にもぐり込んだ。彼はここが気に入っていた。マッカチンが店に入ることを許可してくれているし、小柄で甘い顔立ちのジ・グァンホンという書店員が水の入ったボウルと犬用ガムをマッカチンにやってくれるあいだ、ヴィクトルも本棚を渉猟することができた。

「あの、ヴィクトルさん、ここでブックイベントを開催するおつもりは、ありませんか?」飲んでいるコーヒーのマグにグァンホンが赤くなった顔を半分うずめたまま、ぼんやりと新刊本のページをめくっていたヴィクトルに訊ねた。手にしていたのは、カーリング選手がタイムトラベルするという、なんとも取るに足らないロマンス小説のたぐいである。『王様とスケーター』のヒット以来、この手の不出来なコピー小説もどきが数多く出まわっていた。魅力的な男との恋愛まっしぐらなヒロインが登場する話がほとんどで、少なくともヴィクトルに言わせれば「まったくなんの驚きもない」代物だった。

 型にはまらない自分のやりかたには自信がある。読み手を驚かせるのだ。『王様とスケーター』がアーサーと王の「白か、黒か」といえるギリギリの関係性を軸に展開しているのは、彼らふたりがセクシュアリティーの相違という点で社会の圧力を感じている男たちだからだ。あの「もしも」「いつ」と同じように存在してきた命題でもある。

 さしあたり、このコピー小説はポルノシーンだけはまずまずの出来だ。ヴィクトルは本を棚に戻した。「もしかしたら、そうだね」グァンホンに答える。「でも実のところ、出版関係のツアーやサイン会みたいなものはしばらく休業するつもりでここに来てるんだ。だから俺が断ったとしても、気を悪くしないでくれよ」

「いえ、そんな、ただの変な思いつきなんです、それだけ」そう言ってグァンホンは、頬をありえないほどピンク色に染めた。「そのう、この町にはヴィクトルさんの作品を愛してる人がたくさんいますし、だからもし、ここで交流イベントを開いてくれたら、すごくいいんじゃないかなって …… もっとカジュアルな感じで、トーヴィル・コーヴ・ブッククラブの会合にあわせて、ヴィクトルさんのために時間をもうけるっていうのは?」

「この町の住人がそろって『王様とスケーター』の読者だっていうのは、それが理由?」と、ヴィクトル。「町のどこへ行っても、誰もが俺の本を読んでるような気がするし ―― おまけに、映画よりいいとまで言ってくれる」

「まあ、ここでは噂はすぐ広まりますから」と、グァンホン。彼はコーヒーをひと口飲んだ。「ブッククラブがトーヴィル・コーヴ通信でヴィクトルさんの御本にいい記事を書いてくれれば、その翌週には御本の売上げが最低でも500%にまで上がります。それに図書館にも入れば、その先3ヵ月間はずっと貸出しになりますよ。スンギルくんは予約した人全員が読めるように、返却期限をしっかり管理しなきゃならないだろうな」

 ヴィクトルは少し笑った。「クリストフが少しだけ、スケートリンクで興味をひく催しをしたとか言ってたな」と口にしてみる。

「ああ、ブッククラブがスポンサーになって、『王様とスケーター』のテーマで海岸通りにクリスマス期間限定スケートリンクをつくったイベントのことですね」グァンホンはうなずいた。「ほんとに、いいイベントだったな! クラブで役員会をつとめてる古株のご婦人がたは自由時間をどんどんつぎ込んじゃって、もう全力を挙げてリンクをマンダーラの王宮に変身させてくれたんです。インスタグラムをさかのぼれば、そのときの画像がいっぱい出てきますよ」

 ヴィクトルはくすくす笑った。「だいぶ、おだてられちゃったな」と、返す。「数日、考えさせてくれないかい」

「はい、もしこの週末にルロワ邸のパーティーに行く予定でしたら、ブッククラブ主催者のルロワ夫人に直接会うといいですよ」グァンホンはうなずく。「ナタリー・ルロワさんは、ちょっと押しが強いところもありますけど。曖昧な答えかたをすると、次の週にはもうイベント開催が決定ってことにされちゃいますからね」

「ぞっとしないなあ」ヴィクトルは言って、本棚からまた1冊、本を引き出した。裏表紙の解説いわく、冷戦時代にロシアのスケートリンクで整氷車を操っていたスパイの話のようだ。

「まあ、もう何年もイベントを主催してるルロワ夫人が、1年のほとんどを町の外で暮らしてるっていうんですから」グァンホンは苦笑い。「でももし夫人とのお話に気がすすまなくても、どっちみちパーティーに行くことはおすすめします。クリストフさんがオープン・バーをやるっていうし、シャンパンも振る舞われるんだそうです」

「面白そうだね」つぶやいてヴィクトルは本を開く。グァンホンはそれを、独りにしてほしがっているサインと受けとり、そっと沈黙した。

 ヴィクトルは数ページを繰ったのち、買って海辺で読もうと決めた。導入が面白いし、くわえて購入を決意させたのは冷戦時代がはらむ緊張感で、それが整氷車乗りのスパイと、人を惹きつけてやまないロシアのフィギュアスケーターのふたりのあいだにも表現されている点である。グァンホンが紙袋に入れた本を笑顔でヴィクトルに手渡してくれ、ヴィクトルもウインクを返した。

「パーティーで会おう。いいかな?」

 グァンホンはにっこり答えた。「はい、もちろん」

 


 

 

SHALLWESKATE さんが Viktor Nikiforov さんをチャットに招待しました。

 SHALLWESKATE :ヴィクトル!

 SHALLWESKATE :ヴィクトルがパーティーに行くってグァンホンが言ってたことだし、グループチャットに迎えたよ!

 SHALLWESKATE :みんなお互いの背中をよーく見ること

 Viktor Nikiforov :なんでちょっとした歓迎パーティーで背中を見てもらう必要があるんだい

 mila_b :ルロワのところのパーティーははじめてなのよね?

 sara-crispino :あー毎年いつもなにかワイルド(笑)なことが起きてるよね

 dirtycocktail :去年はレオがコンガダンスをやりだしてプールに落ちてたっけ

 gh_kawaii :あれは楽しかった <333

 leooooo :俺の記憶にないのを きみがいいほうに覚えてくれててホッとしてる

 gh_kawaii :(笑)じゃあ今年はお酒をひかえとく?:)

 leooooo :ただで飲めるチャンスを逃す? ありえないよ

 mila_b :つまりね 自分がバカをやる前に止めてくれって頼むか、でなきゃバカをしちゃっても録画するなって頼んでおけってことよ

 pxpxvxch :アーニャは今年戻ってこないのだそうだ (

 mila_b :ああ~~~ (((

 yuripurrsetsky :おいミラ 俺のユーザー名を変えたな

 mila_b :べつに問題ないでしょ

 yuripurrsetsky :おまえなんかきらいだ

 mila_b :あんた用に持ち出してあげるビールは来年までお預けかなー!

 dirtycocktail :今のは読まなかったことにするよ

 dirtycocktail :ところでヴィクトル

 dirtycocktail :ダンスはできる?

 Viktor Nikiforov :ブエノスアイレスのジゴロの短編を書いたときにアルゼンチンタンゴの基礎を習ったけど、それは数に入る?

 dirtycocktail :なんと情熱的 ;)))

 yuripurrsetsky :未成年もいるんだぞ コラ

 


 

 

 ルロワ家の夏の別荘は、ヴィクトルの住む入り江の反対側に位置していたが、当日は歩いていくことに決めていたし、土曜日は天候もよく、午後の太陽が空にペールピンクとゴールドの光を投じていた。

 町の者の多くが同じことを考えていたらしく、というのもヴィクトルは道中、ユーリ・プリセツキーとピチット・チュラノンのふたりに出くわしたからだった。ふたりともパーティーのため盛装しており、ユーリなどはヒョウ柄のベルトできめている。

「それ、本気かい?」ヴィクトルはベルトを指して訊いた。

 ユーリがじろりと睨みつけてきた。「真のファッションなんざお前にゃケツを噛まれたって分からねえだろうよ」

 あははとピチットが笑う。「ユーリはヒョウ柄のジャケットも持ってるんだよ、ね?」

「今日はあったかいから着ないだけだい」ユーリは言い足した。

 カーニヴァルに立ち並ぶゲームのブースを過ぎたところで、同様にめかしこんだミラ・バビチェヴァとサーラ・クリスピーノと合流する。

「お兄さんは来ないの、サーラ?」初顔あわせをすませて、ぞろぞろ会場へ移動をはじめるとピチットが明るく訊ねた。パーティー音楽はすでにドリフトしながら水面を渡ってきて、やかましく鼓動を響かせている。

「ワイナリーで留守を預かるって言うの。でもきっと後から来るわ、エミルが兄を迎えに行くって約束してくれたもの」そう言って、サーラはミラと腕をからませた。

「妹を見張るためならあいつ、ここまで俺らをつけまわしに来るかもしれねえぞ」不機嫌に所見を述べるユーリ。

 サーラが笑う。「わたしが自分のプライベートな時間に何をしようとミッキーには関係ないわよ」と、夕空を仰ぐ。

「あるいは、誰が君と何をしようと、だよね」ピチットがつけ足し、ミラとウインクを交わした。ユーリが唸る。

 ゆーとぴあ・リゾートの前まで来ると、ピチットがすばやくメールを送信した。次いで、グループの輪から離れる。

「ちょっと遅れていくよ」ピチットは言った。「先に行ってて!」

「いいの?」とサーラ。「わたしたち、ここで待つけど」

 ピチットが笑った。「ううん、それじゃ都合が悪いんだ。真面目な話、先に行ってね。すぐに追いつくか、でなきゃパーティーで会おう」

 ヴィクトルが眉をあげた。「誰かとここで待ち合わせしてるの?」リゾートのほうを見やる。

「うん、友達がここに住んでるんだ。ただ彼はファッションセンスが壊滅的でさ、パーティーにふさわしく着替えさせなきゃ」肩越しに答えながら、ピチットはリゾートの玄関へ向かう。ほかの者はそのまま歩き、ヴィクトルも彼らの後を追った。

 ルロワ家の夏の別荘に着く頃には、空はピンクとゴールドの色を深くし、桟橋のライトが光を放ちはじめていた。裏庭から音楽が揺らぎ流れてくるなか、広大な邸宅の門をくぐった。

「うげ、たまにすっかり忘れるんだよな、こいつらの成金ぶり」ユーリが陰気にこぼし、一同は正面玄関へつづく階段にたどり着く。デッキはすでに大勢の人が詰めかけており、窓とドアをすべて開け放ってあるのは、屋内の不愉快な大音響をすみやかに外へ出すためのようにも見える。

「でも、ここのパーティーにはいつも来てるんだろ?」ヴィクトルが訊く。

「まあな。フリードリンクをみすみす逃せるか」ユーリは返す。「それに引っ越しパーティーの時期は、この町でほかにすることなんて何もねえんだ。どいつもこいつもパーティーに出かけちまうんだから」

 正面玄関より中へ入れば、まるで音の壁にぶつかったような感覚をおぼえた。パーティー客をかきわけ進むあいだも、音楽はヴィクトルの両耳に攻撃をくわえてくる。

「レオとグァンホンは下の階にいるって」不意にサーラが言って、スマートフォンを振ってみせた。

「クリストフはどこ?」と、ミラ。「まだまだ試合前みたいなものでしょ、こっちは全然飲んだ気分になってないし」

「外のプールサイドにいるのかも。あそこでよくバーを設置してるもの」サーラは言ってミラの手を引きながら、手近な階段へ向かう。「でもまずは、グァンホンとレオを見つけなきゃね!」

「俺はサイダーでも飲むぞ」ユーリは宣言する。「バーに行ってるからな」

「じゃあ、そこで会いましょ!」サーラが手を振り、ミラとともに離れていった。ユーリはヴィクトルと視線を交わすと、人の群れを肩で押しのけ裏庭につづくドアのほうへ進んでいく。

 ヴィクトルもついていこうとするが、リビングルームを突っ切る途中で、アンダーカットの黒髪に満面の笑みを浮かべた若い男に行く手を阻まれた。「ヴィクトル・ニキフォロフ!」男は言って、長年の相棒であるみたいにヴィクトルの背をばしばし叩いてきたが、まったく初対面の見知らぬ者同士である。「ここで会うなんて、奇遇っすね! あんたがうちに来てたなんて知らなかったなあ!」

 ヴィクトルは反射的に、自分に可能なもっとも平静な笑みで返す。「君は、ジャン=ジャック・ルロワ、だっけ?」と訊く。視界の隅でユーリがドアのところで向きを変え、人混みをじろりと眺めまわすのが見えた。

「まさしく俺のことだぜ!」みとめるジャン=ジャック。次いで隣にいる、赤い髪をやたらドラマチックなボブスタイルにした年かさの女性を身振りでしめした。「母のナタリーを紹介してもいいですかねえ? 『王様とスケーター』の超、ファンなんすよ」

「ここはいい町ですね」ヴィクトルは曖昧に言った。とはいえ、ナタリーの手をとってキスはした。「お会いできて光栄です」

「わたしも光栄です」ナタリーも応じた。「今宵はどうぞ楽しんでちょうだい。選曲はJJに任せてしまったのだけれど」

「ええ、とても …… 発散してますね」ヴィクトルは述べた。群衆に目をやると、ユーリが人の波を押しのけてこちらへ向かってくるのがちらりと見えた。

「俺がガールフレンドとやってるバンドで演奏してもよかったんすけどねえ。ドラマーが急な風邪で寝込んだりしなけりゃな」割って入るJJ。ヴィクトルは背筋の震えをおさえこむ。斜めうしろすぐからライブ音楽に襲いかかられちゃ、たまったものではない。

 ずいとナタリーが前に出る。「トーヴィル・ブッククラブの活動のことは、すでにお聞き及びでしょう、ニキフォロフさん。もしちょっとしたイベントの開催にご興味がおありなら ―― 」

「ヴィクトル!」ヴィクトルが頭をめぐらすと、ほっとしたことに、ユーリ・プリセツキーが道すがら、手に届く何人かをぼこぼこ肘で打ちのめしつつ、そばまでやってきた。「早くしろ! サイダーはわざわざ自分から飲まれに来てくれるわけじゃねえんだぞ!」

 好機ととらえて、ヴィクトルはすぐさまルロワ親子のもとから脱出をはかる。「お褒めいただきありがとうございます、ルロワ夫人。ですがいかなる返答の場合でも、公での活動を行うには担当エージェントに相談しなければなりません。今夜おいとまする前に名刺を差し上げますので、よろしいですね?」そして相手が返答する隙を与えず、裏庭のほうへユーリに押されていった。「このパーティーは本当に最高だねえ!」親子の姿が人混みにまぎれ見えなくなる間際、ヴィクトルは肩越しに叫ぶのだった。

 なんともはや、裏庭の音楽は屋内のそれにも増して、やかましかった。ユーリの金髪がプール端でダンスする人々のあいだをぬって進むのを、ヴィクトルは追う。プールの中にはもう紙吹雪がまき散らされていた。誰が掃除するのだか知らないが、べつにそいつのことを羨ましいとは思わない。

「借りができたな」彼はユーリに言った。

「どっちにしてもよ」と、ユーリ。「あの状況じゃJJ・ルロワに晒し者にされる前に警告しとく暇なんてなかったしな。お前の健康を心配してやったんだい」

「マッカチンにコーンをくれたのも、俺の健康を気づかってくれたってことかな?」

「うるせえ、犬野郎」ユーリは唸って、そしてふたりはクリストフが支配人をつとめるバーへ向かう。

「飲むにはちょっと若すぎるんじゃないかな、ユーリ・プリセツキー?」年長のブロンド男は、バーの前でふんぞり返るユーリに声をかけた。

「こっそり飲んでりゃ歳なんて関係ねえって、知ってんだろ? 5歳です、とかよ」ユーリは言い張る。「それに、俺が欲しいのはスパークリングのアップルサイダーだ」

 クリストフはうやうやしくフルートグラスにスパークリングサイダーを注いでやり、そしてヴィクトルのほうへ顔を向けた。

「君も来てたんだ!」彼は喜びの声をあげる。「強いのはどうだい、ダーリン」

「ウォッカ・トニックを」と、ヴィクトル。

「遠慮しなくていいって、ほら?」クリストフは笑いを漏らしつつ、さっとストリチナヤのボトルをつかんだ。

「ルロワのパーティーって、どうやって楽しめばいいんだ?」ヴィクトルは疑問を口にする。「でなきゃ俺は間違った情報を仕入れたのかな」

「今年はぜひオードブルを味わってみるといいよ」ひとりごちながらクリストフはハイボールグラスにウォッカとトニックウォーターを注ぎ、縁にライムを飾りつけて仕上げた。「ホタテのベーコン巻きなんて誰が考えついたか知らないけど、あれなら一晩中だって食べていられるね」

「まだ6時だぜ」ユーリが面白くもなさそうに言った。

「ひと、ばん、じゅう、ね」じっくりとクリストフは言ってのける。ユーリはあきれて視線をそらすと、人混みのなかへ消えた。クリストフはヴィクトルにグラスを渡す。「どうぞ、ダーリン」

 ヴィクトルは礼にと、ハイボールグラスを掲げた。最初のひと口をすすったとき、ピチットが裏庭へ姿を見せたことに気づくが、若者はひとりの男性の手を引いていた。

 ひゅう、と低い口笛がクリストフから発せられ、そして突然、パーティーの音楽がぼんやりした雑音に変わってしまったみたいに、ヴィクトルの心臓が大きく打った。

 ピチットの友人ときたら、とんでもなく美しい。

 かたくなで優しげで、高い頬骨になめらかな頬、くっきりとした鎖骨を黒のシャツから覗かせるいっぽうで、溌剌とした尻を罪深くも細身のジーンズがくっきりと強調し、どれもがそれぞれ不思議な均衡をたもっていた。黒髪を額のうしろへ流し、明るい茶色の瞳は青いフレームの眼鏡の奥で、謎めいたきらめきを放っている。

 もしヴィクトルの勘違いというのでなければ、はたしてその青年は、親指をシャツのサスペンダーに差し入れ、さっと走らせると ―― ヴィクトルは息を飲む ―― ぴたりとこちらを見据えた。

 ヴィクトルの心臓が跳ねあがる。

 青年はピチットが着ているサーモンピンクのスーツジャケットの裾を引いた。ピチットが振り返って、青年は指で何か合図した。するとピチットはヴィクトルのほうへ顔を向けて見つめ、しきりに手を振った。

 パーティーの騒音がよみがえりヴィクトルの鼓膜を直撃した。まばたいて、ノミを振り落とそうとするマッカチンみたいに頭を振ってから、笑顔とともにピチットへ手を振り返す。背後ではクリストフのくすくす笑いが聞こえる。

「何か気に入ったものでも見つけた?」と、クリストフ。

 じっくりとウォッカ・トニックをひと口飲めば、ピチットとその友人を見つめていた自分の視線がちらちら揺らいだ。謎の青年はピチット相手に手話をつづけ、対するピチットもしゃべったり、少し不慣れな手話で応じている。

「あのピチットの友達って、どんな子?」ヴィクトルは問うた。

 くすり、とクリストフが笑う。「勝生勇利さ。彼は …… 何をしているのか、俺もはっきりとはわからないね。彼の家族が経営してるリゾートを手伝ってるんだと思うけど、でも西郡と一緒だったり、エミルの店にピチットといるのを見たこともあるな。たしかなのは一度だけ、映画館でミラとゲオルギーの手伝いをしていたってことかな」

「今まで町で彼を見たことなかったな」と、ヴィクトル。いやまったく、もし人目のないときにトーヴィル・コーヴをぶらつく勝生勇利の魅力にあてられたとしたら、どうなったろうな。

「勇利はちょっと内気でね」とクリストフ。「ピチットが彼を今夜ここに連れてきたことこそ、驚きに値するよ」

 妙にタイミングよく、勝生勇利は通りかかった給仕ワゴンから、さっとシャンパンのグラスを手にとった。ヴィクトルは笑い声を漏らし、自分の飲み物をふたたび口にする。

「それで」クリストフが甘ったるく言った。「ぜひ知りたいね、ヴィクトル。君は自分の小説のこととなると、とことん細部にこだわるたちだからさ。君がすぐピチットと勇利のところに行かないのは、誘惑の手管についてリサーチはしても、実行にうつしてはいないっていうのが理由かな?」

 ヴィクトルが、むせた。「なんだって?」きつく問いただす。

 クリストフときたら、にやけ面の典型みたいな顔つきである。「だから、君に派手な恋愛遍歴があるわけじゃないと俺は思うし、いっぽう俺は偶然にもピチット・チュラノンと友人で、そしてピチットは実際、なかなかの詮索好きだ。そして君に関しては、世界で一番恋人にしたい独身男性リストに名をつらねるような著名な作家でありながら、ウィキペディアの君の『私生活』項目には格別興味をひくような記事は何もない。となればこっちとしては、何かを察するってものさ」

「これからは色目をつかった相手といちいち秘密保持契約でも交わしたほうがいいのかな」ヴィクトルは辛辣に返すも、両耳に火のついたような熱をおぼえた。

「まあね」クリストフはくつくつ笑っている。「別に、君の前に身を投げ出して愛を乞う人たちがいれば、彼らにただイエスかノーで答えてやればそれでいいんじゃないの」

 耳が痛い。ヴィクトルは顔から火が出る思いだった。ハイボールグラスを、がんとカウンターに叩きつける。「なら回答してさしあげる前に、ウォッカをもう1杯もらおうか」そう言ってやると、クリストフも訳知ったる顔で笑い出した。

 白ロシア風に、一気にウォッカ・トニックを干したものの、勝生勇利にアプローチするというのは到底いい思いつきと思えなくなってきた。今宵の星はきらきら空に輝いて、ルロワ邸の裏庭に張りめぐらされた豆電球はみずからが小さな星屑さながらに灯り、そしてユーリ・プリセツキーはジャン=ジャック・ルロワとちょっとした諍いを起こして、相手にスパークリングサイダーをひっかけている。

 勝生勇利はまだピチットのそばにくっついて、おそらく今夜でもう6杯目のシャンパンに口をつけている。邸宅から漏れ聞こえる音楽は耳障りなほどアップビートで鳴りつづけ、そして人々はおのおの動きをあわせて踊っている。特に酔いのまわった者などはぴょんと跳びあがっては、服を着たまま、プールへ飛び込んだりもした。さらにほかの酔っ払いたちは、ルロワのボートハウスからボートを一艘か二艘ほど担ぎだそうと騒いでいる。

「信じられない」ヴィクトルがぎょっと我にかえったところでユーリ・プリセツキーが帰還し、クリストフは近づいてきた彼が手にするフルートグラスをただちに満たしてやる。「JJの野郎、パーラーで『ザ・JJスタイル』とかいう名のアイスクリームサンデーを売れ、ってぐだぐだと講釈たれやがる。今度あいつが一歩でも店に入ってきやがったら、絶対にぶっ殺す」

「殺しちゃうのは、店の経営上よろしくないと思うなあ」と、クリストフ。

「そんなもん、俺の知ったことじゃねえだろ?」ユーリが言い返す。「あの間抜けのせいで、紐にでもつながれて身動きひとつとれねえ気分だ」

「そもそも君をつなぐ紐があるってのが信じられないんだけど」クリストフは笑ったが、なにやら思いついたのか、いっとき黙った。「ねえ。ヴィクトルに通訳をしてやったらどう?」

「なんだと?」ユーリが言い返した。クリストフはピチットと勇利を指ししめした。勇利はもう7杯目のグラスを手にしている。「ひとつ、頼まれて欲しいんだけど ―― おや」

 ヴィクトルは用心しつつ自分の頬に触れ、グラスを干して黒髪にさっと手をすべらせる勝生勇利の姿から、あわてて視線をそらせた。

 クリストフの提案を聞いていたユーリの憤慨が耳に届いた。「犬野郎と子ブタの仲を取りもつなんざ俺はごめんだぞ、クリストフ」ぐい、とサイダーをあおる。「自分らでなんとかできるだろ、子ブタは口がきけねえだけで、耳はちゃんと聞こえるんだ」

「まあまあ、いいだろ。君は俺たちの中では一番、手話がうまいんだから」クリストフはおだてた。ユーリの返答は聞こえなかった、しかしヴィクトルはグラスを置くと、液火のごとく血管をめぐるアルコールを感じながら、ピチットと勇利のほうへ足を踏み出した。

 頭はもう酒のせいであたたかなほろ酔い気分になり、音楽の叩きつけるような感覚はうすらいで、もっとゆるやかに脈打つものへ変わっていく。勇利に向かってゆっくりと歩をすすめれば、なんとなく相手はこちらの接近にどきりとしたとみえ、シャンパングラスをさらに1杯すばやく空にした。 

「ピチット!」ふたりのもとへ来るとヴィクトルは声をかけ、タイの若者の肩に腕をまわした。「待ってたよ! それから、彼が君の言ってた友達?」

 ふふと笑うピチットの顔は、いくらか赤らんでいる。「そうなんだ、それに今の服に替える前がどんなだったか、ヴィクトルが見てなくてほんとによかったよ」

 その言葉への返答のつもりか、勇利は自分のジーンズのポケットに両手を突っ込んだ。彼の頬はすでにアルコールと苛立ちの両方から、鮮やかに色づいていた。触れれば見た目どおりにやわらかいのだろうか。

「君の名は?」ヴィクトルが勇利に訊ねると、相手の男はそわそわした。彼はポケットから両手を出すと、中途半端なジェスチャーをいくつかし、そして頬をさらに染めてピチットをじっと見つめる。

「勝生勇利だ」ピチットが通訳し、そしてつけくわえた。「勇利はもうだいぶ飲んでるけどさ、でもどんなにシャンパンを飲んだって、ヴィクトル・ニキフォロフに会えることとくらべたら、どうってことないもんね?」

 その言葉に勇利は眉を寄せ、ピチットへ矢継ぎ早に手を動かしたが、似たような反応を返される。勇利は荒く息をついて、ヴィクトルの袖を引っ張った。

「なんだい?」両手が途方に暮れてしまったような気分をかこち、ヴィクトルは応じた。自分にはロシアに残った耳の不自由な祖母がいたので手話もいくらか習いおぼえてはいたものの、それはロシア手話で、勇利に理解できるかどうか甚だあやしい。下手をすれば、失礼な表現として勇利に伝わってしまうかもしれない。

 勇利はにこにこと笑みを向け、口の形で何かを言いながら、両手を左右に動かした。そうして両の眉をひょいとあげて、首をかしげる。ヴィクトルが困ってピチットを見ると、こう言われた。「一緒にダンスをしませんか、って勇利は言ってるよ」

 ヴィクトルは勇利に、にっこり笑いかけた。「ああ、喜んで!」そう言って力強くうなずくと、勇利の笑みは大きく広がった。そうして彼はヴィクトルの腕をとると、ダンスに興じる群衆のなかへ導いていった。

 

(つづく)